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「科学的社会主義」討論欄

朗読について

2003/1/20 Hegel、40代

 朗読についてヘーゲルは次のように述べている。

もう一つ今学年度導入されました興味ある練習として、公衆の面前での朗読があります。中略。もっとこれが授業の中で生かされるようになれば、きっと外見についても内面的効果についても一層のものが期待され得ると存じます。およそ正しく分別をもって読むということは、読む者に、分別のある、洗練された感覚と、十分な勉強とをもとめるものです。読むことには多くのことが結びついているのであり、乃至は読むことは多くのことを前提としているのです。(上妻精編訳、ヘーゲル教育論集、国文社、p.81)
 ヘーゲルは、これについてさらに詳細に吟味していたようである。ところで、古い赤旗を整理していたら、2002年5月6日付けの本と話題で、「脳を鍛える」という特集があった。その中で紹介されている『自分の脳を自分で育てる』(川島隆太、くもん出版・1200円)によると、fMRI(機能的磁気共鳴画像装置)を使って実験した結果、「もっとも脳が活発になるのは、文章を声を出して読んでいるとき」なのだそうである。経験を重視するヘーゲルであるから、自分自身の学習法を検討し、どのようなとき最も脳が活発になっているか、観察していたのだろうか。
 私自身も、早速来期からの授業で朗読をもっととり入れていきたいと思う. また、例えば党支部で、読み合わせなどをされる事も多いと思うが、このような観点からもその意義を見なおしてみる必要があるではなかろうか。
 ところで、話は変わるが、下らない校則が学生諸君を悩ましているようだが、ヘーゲルはこれについてどのように考えていたのだろうか。それについては、次回報告したいと思う。以下の引用を参照にして予測しておいていただきたい。

 施設の確立は早く済みますが、しかし、 その気風と精神の確立はそうはまいりません。しかし、はじめにあっては命令に対する服従であったのものが習慣となり、内面的に一様の態度が確立されることは、施設の完成にとって等しく本質的な事柄です。(ヘーゲル教育論集、43ページ)
 自然のままの欲求や感情や好みは、わたしたち自身に属するとはいっても、あくまでも自然に由来するもので、それはわたしたちの内部にあってわたしたちを制約するものです。そういう意味で、それは必然性をもってせまってくるもので、欲求や欲望や好みがわたしたち自身に由来するとはいっても、そのなかでわたしたちは自由ではなく、必然の動きに支配されています。(長谷川宏訳、法哲学講義、作品社、014ページ)
 教育の主眼転は躾であり、躾には、たんに感性的で自然的な要素を根絶するために、子供の我意を砕くという意味がある。この場合単に穏便なやり方で足りると思いこんではならない。なにしろ直接的意志は、とりもなおさず、直接的な出来心と欲望のままに行動するものであって、理由と表象によって行動するものではないからである。(藤野渉・赤沢正敏訳、法の哲学、II、p.66)