昨日、寺沢恒信訳大論理学1を古本屋から手に入れた。初版本の翻訳であり、ヘーゲルが生前どのように思索を深めていったかに関心ある研究者にとって貴重な訳本である。ところで、寺沢氏といえば、学生時代その著書をタイトルに惹かれて手にしたことがあるが、結局買わずじまいだった思い出がある。まず、最初に第三巻を手に入れたとき、あれは早計だったかなと思ったのであったが、第1巻を見て、日本の翻訳文化の厚みをあらためて感じさせられた。
p.485に、「君はわしの言うことがわからんのかね。それは君が勝手な反省をやっとるからだ。そうすれば、わしの言うことをもっともだと思ってうけとることができるようなるじゃろう。えへん!」とある。ともかく、念の為言っておくが、これはヘーゲルの頭に浮かんだ文章でななくて、寺沢氏の頭に浮かんだ文章なのである。これは、このような文章が頭に浮かぶ人間の、理屈以前の人格・品性に関わる問題である。
ところで、寺沢氏によると、第1版では、論理学が『精神の現象学』を前提しているということが、第2版では条件付で認められることになる。つまり、『精神現象学』の位置付けが「下げられた」のである。これは、長谷川訳の『精神現象論』をまず一読し、かつ、その第2版を企図し果たせずなくなられたことを知ったとき、もし、企図が果たせられていたならば、相当の変更があったのではないか、という印象を持ったのだが、その傍証を得たような感触である。よっぽどひまであれば、寺沢氏の師匠である金子武蔵氏が『精神の現象学』の翻訳者であることと何か関係があるのか、人間学の研究でもしたいくらいである。
しかし、それによりももっと重要なことは、寺沢氏が弁証法唯物論にこだわっていることだ。何かエンゲルスを批判したら、それこそ社会の運動からつまはじきされてしまうような社会的雰囲気の反映をどうしても感じてしまう。これは、私自身最近反省させられることがあったから言うのだが、大衆運動であれ、党組織の活動であれ、覚悟を決めて運動に献身していれば、マルクスであれ、エンゲルスであれ何も怖いものはない(怖いどころかやさしい叔父さんたちだと思うけど)。人の墓は暴きたくないけれど、寺沢氏は身の回りの諸課題にどう対応していたのであろうか。
ともかく、業績についてはこれからいろいろ勉強させてもらうにしても、今私ははらわたが煮えくりかえっている。人のことはともかく、「ピュタゴラスの徒は、最初四年間は徹底的に沈黙を守らなければならなかったと言われます。中略。それは若者がいだきがちの独善的な思いつきや思想や反省を根絶すること、若者がこうしたものを自分から作り上げる仕方を根絶することこそが、教育の主要な目的であると考えられたからです」とヘーゲルはいう(ヘーゲル教育論集 上妻訳 国文社刊)。学問であれ他のどのような職業であれ、何かを身につけようとしたら当然のことである。私は、この当然の道を選び、まずは徹底した音読(前回投稿参照)から学習をはじめようと思う。