寺沢恒信氏は、G. W. F. Hegel著"Wissenschaft der Logik"の有論までの翻訳、『大論理学I』の付論三において、ヘーゲルが「学は何をもって始めねばならぬのか」において論じたことについて考察している。そして、初版と第2版とを比較して、第2版における変更は改悪である、と結論を述べている。
ここで、問題となっている重大な箇所は、第2版の
さて純粋知のこの規定からはなれて、端初を純粋知の学に内在的でありつづけさせるためには、現存しているものを考察しさえすればよい、あるいは、むしろ、人びとがふつうもっているあらゆる反省・あらゆる私念を斥けて、現存しているものを受けとりさえすればよい。(寺沢 p.424)
という部分である。
念の為、原文をShurkampf版から引用すると(s.68)、次のようである。
Dass nun von dieser Bestimmung der reinen Wissens aus der Anfang seiner Wissenschaft immanent bleibe、 ist nichts zu tun、 als das zu betrachten oder vielmehr mit Beiseitsetzung aller Reflexionen、 aller Meinungen、 die man sonst hat、 nur aufzunehmen、 was vorhanden ist.
本題に入る前に、訳について少し述べる. まず、ここで問題となっているWissenschaft(学)について、上記の引用の省略したカッコ書きの中で、寺沢氏は論理学のことであると述べているが、これはまず間違いないであろう。また、Anfangは、寺沢氏は、端初、と訳し、 松村一人氏は、始め、と訳し、また、私の記憶に誤りがなければ、武市健人氏は、始元、と訳されている。
少し意見を述べたいのは、vorhandenの訳である。vorhandenという語は、ヘーゲルの著書の中で出現する頻度がかなり多い語句であるので、その用法を徹底的に調べてみねばならないと思われるのだが、それにしても、DaseinやExistenzほど重要な語句でないことだけは確かであろう。そのような語句に対して、現存、という訳語は少し重すぎるような気がする。実際、例えば、小論理学の(Shurkamp版、Werke 8、 Seite 200)
Was in der Tat vohanden ist、 ist、 dass Etwas zu Anderen und das Andere ueberhaupt zu Anderem wird.
の訳は、例えば、松村訳では(上、289ページ)
ここに実際見出されることは、或るものが他のものになり、そしてこの他のものが一般にまた他のものになるということである。
また、英訳では(手元にない)
What is indeed given is that something becomes another、 and the other becomes another quite generally.
となっている。
さてここから、本題であるが、寺沢氏は、
あるいは、むしろ、人びとがふつうもっているあらゆる反省・あらゆる私念を斥けて、現存しているものを受けとりさえすればよい
の部分を次のように読む。端初論という「大問題」について、いや、それはべつにたいしたことではないんだよ、と言いたいヘーゲルの気持を表したのがこの表現であり、それは、「すでに定まった評価をえて・大先生になった哲学者が、しかも自分の主張が一般の人びとに必ずしも受け入れやすいものではないことを自覚している場合しばしば用いる・古くてずるい言いのがれである。」と。
わたしは、この部分は、
純粋な有が始めをなす. なぜなら、それは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接態であるからであり、第一のはじめというものは媒介されたものでも、それ以上規定されたものでもありえないからである。(小論理学、86)
の言い換えに過ぎないものと思う。このように純粋有をもってはじめることは極めて自然なことであって、数学の集合論でも、空集合をもって端初としている(竹内外史著『集合とは何か』講談社Blue Backs)。問題は、第2歩のようである。集合論では、空集合を中カッコで囲むことによって第2歩とするのであるが、ヘーゲルは、純粋有はその空虚さにおいて無と何ら変りがなく、むしろ、有と無との区別は、区別があるはずだという区別にすぎない、とする(ここで、空虚、という言葉を便宜上用いた)。
ともかく、このような純粋有を把握するためには、反省はもちろんMeinung(私念、意向、臆見、意見)を交えてはならないことは明らかであろう。しかし、このような純粋有はイメージ(表象)できないものであろうか。ヘーゲルはこの点について、
有および無の統一は表象できないという意味にすぎないとすれば、それは事実ではないのであって、むしろ誰でもこの統一の表象を無数に持っている。このような表象を持っていないというのは、人がそうした表象のどれにも当の概念を認識することができず、それが当の概念の実例であることを知らないということを意味するにすぎない。(松村訳『小論理学』上、p.272)
と述べて、実例として、成と始めをあげている。
寺沢氏が好む第1版でさえ、「学は何をもって始めねばならないか」を次ぎのように結んでいる。
この洞察はそれ自身極めて単一であって、この端初は、前述のように、どのような準備をもよりたちいった導入部を必要としない。そして端初についての理由付けを前もって述べたことの意図は、理由付けを行うことにあるのではなくて、むしろあらゆる前もっての議論を遠ざけることでしかありえなかったのである。
寺沢氏は、「「端初論」を非常に意味深長な・難しいものだと考えてきた。その微妙なところに深い意味があるのではなかろうか、と。」と言う。しかしながら、考える暇もなく、純粋有とともにすでに始まりは終わってしまっていたのだ。
なお、ヘーゲルが、他人の評判をいちいち気にかけるような人物かどうかは、次ぎの引用から読者自身判断していただきたい。
哲学の研究はそれだけ一層自由に事柄そのものおよび真理にたいする関心の上に立っている。アリストテレスが言っているように、認識が至福のものであり、善のうちで最善のものであるとすれば、この喜びにあずかっている者は、自分がそこで持っているもの、すなわち自己の精神的本性の要求の満足を知っているのであって、あえてそれを他の人々に要求せずにいるし、他の人々が何を求め、それにたいしてどんな満足を見出そうとかまわないでいることができる。(松村訳、上、p.57)
哲学とは、人間を無数の有限な目的や意図から解放して、人間をそれらに対して無関心にし、そうした物があってもなくても同じことだと思わせるようにする教えではある。(同上、p.271)