ヘ-ゲルの校則に対する考え方を紹介する。ほぼ1月前の朗読に関する投稿で、関連した引用をしてあるのでそれも参照にしてもらいたい。
引用は、上妻精編訳『ヘーゲル教育論集』国文社 73ページからである。
このように考察された生活環境の本性から帰結する諸結果の一つは、私共のような施設で行なわれ得る規律の気風や外面的な取り扱いかた、そしてまた範囲に関係するものです。すわなち、躾け、そして特に学校での躾けという言葉の下にどのようなことが理解されるべきか、この諸概念は教養の進行とともに大きく変化するものです。訓育とは本質的に
成長する自己感情を抑圧することではなくして、むしろこれを支援していく
ものであり、すなわち
自立を目指しての形成
でなくてはなりません。そして、この正しい視点から訓育というものが考えられるにつれて、次第に教育施設においても、同様に家庭からも、つぎのような仕方は影を消すに至りました。それは、いかなることであれ、
若者に隷従と不自由の感情を与え、どうでもよいことでも、彼自身の恣意にまかせず、他人の意志に服従させるようにする、--
いわば服従のための服従という空虚な服従
を若者に強制し、そして本来は
ただ愛と尊敬と事柄に即する真剣さ
だけに属するところのものに、苛酷な労苦を通して達せしめるという仕方です。--私共の施設は、学生たちから、授業中の静粛、そして注意力の集中、また
教師や学友に対する礼儀正しい振舞、
課せられた宿題の提出、一般に勉強の目的の達成に必要であるところの服従は、これを厳しく求めます。しかし同時に、これと結びついて、学校の秩序に関係のない、どうでもよいものについての振舞は学生の自由にまかせております。勉強仲間など、学問と精神の活動がその紐帯であり、関心であるような交わりの場においては、自由が欠けているということは、とくに不適当なことです。勉強するものの集まりは、決して下僕の集まりのように見なされるべきではなく、学生もまた
下僕のような風貌や態度
を取るべきではありません. 自立を目指しての訓育は、若者ができるだけ早く自分自身の礼節感と自分自身の悟性に相談することができるようになることを要求するものであり、したがって仲間の間で、また年上の人々との関係で、
若者が自分の行動を自分自身で律することのできる自由な領域
が、若者に開放されていることを要求するものであります.
これは、1811年9月2日のギムナジウムおよび実科高校終業式でのヘーゲル校長の式辞の一部である。この学校施設は、何歳で入学させるかは両親次第らしいのだが、ヘーゲルの希望としては、8~10歳で入学し、10年かけて卒業するものらしい。
なお、いじめについては、「学友に対する礼儀正しい振舞」への違反として、厳格な躾けを学校の責任において行なう、というのがヘーゲルの立場であろう。
以上の引用、息子さんや娘さん、あるいは甥御さんや姪御さんで、ばかげた校則に苦労しておられる子供たちがいらしゃったら、どうぞ使ってください. また、そのよう学校で式辞の挨拶に困っている校長先生がいらしたら、ぜひこの本を紹介してあげてください。
話は変わるが、最近、「アエラ」のつり広告で、音読で成果を上げる学校 みたいな記事があるのを見た。また、かの湯川秀樹先生も、幼い頃、『論語』の素読によって頭脳を鍛えたという。私も、以上の引用を作成にするにあたって、声に出しながら写してみた。ところで、最近、音読をするために近くの公園に行ってみたら、丸太で作った子供用の器具があったので、思わず試したところ、見事に落ちてズボンを破いてしまった。音読には、思わぬ不効用が伴うこともあるようである。