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「科学的社会主義」討論欄

ヘーゲルと愛国心

2003/3/12 Hegel、40代

Georg Wilhelm Friedrich Hegelの著書

Grundlinien der Philosophie des Rechts(Shurkamp)

の§268から、愛国心に関する彼の思想を私なりにまとめてみた。

 藤野渉、赤沢正敏訳『法の哲学』(中央公論新社)ならびに長谷川宏 訳『法哲学講義』(作品社)を参照した。

 愛国心という政治的心情は、本来、真理に立脚した確信であり、単なる思いこみにすぎないような主観的確信ではない。また、それは、国家に存する諸制度ならびにその制度に適合した行為が理性的である限り、それらの結果として習わしとなった意欲である。この心情は、私自身の根本的な利害が国家の利害と目的の中で守られているという信頼なのである。国家という他者が私にとって他者ではないと意識されたとき、私はこの意識において自由なのである。. 

 愛国心は、しばしば異常な献身や行為に気持が傾くことだと勘違いされる。しかし、愛国心という心情の本質は、共同体が根本的な土台であり目的であることを、普通の生活の中で知ることなのである。このことが日々の生活によってあらゆる面で意識されていてはじめて、それがいざというときの奮発の基礎となるのである。 しかし、人はしばしば法を尊重するより勇ましいことを好むので、容易に異常な愛国主義に走ってしまう。こうして、真の愛国心から逸脱しかつそのことを言い訳しようとしているのである。心情から始めて、その心情が主観的なイメージから生じるものとみなされるならば、それは思いこみとなって、客観的に実在する真の基礎を欠くことになるであろう。

 中央教育審議会(2002年11月14日)は、世情を嘆いてみせ、新しい「公共」の創造を提案している. しかし、ヘーゲルに言わせれば、概念にふさわしい国家においては、ありきたりの生活の中で公共心が養われるのである。客観的基礎がないところで公共心を煽り立てることは、狂信的愛国主義をもたらすだけである。

 なお、『法哲学講義』を合わせ読むならば、ヘーゲルは、愛国心という心情が、私はプロイセン人だ、私は日本人だ、という単純な国民の誇りの水準から、多少なりとも教養ある洞察に移行する可能性を示唆している。そして、その一つとして、自民族の大事業を知る、ことをあげている。現在の日本国民の大事業とは、われわれが、国家の名誉にかけ、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓ふところの日本国憲法の理念の実現なのではないだろうか。