ちからさんへ
「科学的社会主義」ってなんだろう?なかなか整然と説明するには難しい問題ですね?科学的社会主義は、自然や社会がどのように成り立っていて、どのように運動、発展してゆくのかを解明してゆく学説ではないかと思います。そして大事なのは、この学説は自然や社会の発展の中で絶えず発展してゆく理論であるということです。
この問題を考える時によく思い出す話がふたつあります。ひとつは岩波文庫刊の「君たちはどう生きるか」の一節です。この物語の主人公である中学生のコペル君はある日、自分の存在について「自分はちっぽけな水の分子なんだな」と思います。そして自分が生きていることに何か意味があるのだろうかと思い悩みます。しかし、コペル君はそこで新しい発見をします。水の分子は孤立してバラバラに存在しているのではなくて、まわりの水の分子と固く結びつきあって存在していること、そして「水の分子」のようにちっぽけな存在に見えた自分の存在も、実は顔を見も知らぬ無数の人々や自然などと結びつきあっていることを、まさにコペルニクス的につかみ、コペル君は「ああ、やっぱり自分は水の分子なんだな」と思い、元気を取り戻します。
もうひとつは物質についての話しです。ちからさんはこの世で一番小さい物質ってなんだと思いますか?19世紀までの自然科学界では究極の物質は原子であり、それより小さな物質は存在しないと考えられていました。ところが物理学者であるマッハという人が「原子より小さな物質がある!」とぶちあげ、それを証明してしまいました。この当時、自然科学界の成り立ちを全て原子を基準に説明しようとしていた、唯物論の立場に立つ科学者達は、困惑、動揺してしまいます。これを「物理学の崩壊」とよび、世の観念論者たちはここぞとばかりに「唯物論は破たんした」「マルクス主義(科学的社会主義)は崩壊した」と言い放ちました。ここで登場したのがレーニンでした。レーニンはその著「唯物論と経験批判論」のなかで、この問題についてズバリ解答しました。曰く、人間が物事の本質を捕らえる際には絶えずその本来の姿とはズレが生じること、しかし同時にたえざる研究と解明を通じて人間はその究極の姿(本質)せまり、認識することができることを指摘しました。このことはなんとノーベル賞を受けた小柴教授の研究にも受け継がれています。小柴教授は「カミオカン・・・(文字化け部分)・・・。
私がこの二つの話を通じて大事に思うことは、自分や社会を絶えず様々なつながりのなかで考えること、一見身の回りの中でおきている物事が否定的(つまりダメ)にみえても(例えばアメリカによるイラク攻撃)その問題がなぜおきたのか、どうしたら前向きに解決できるのかを考えて行動してみたり、研究してみたりすることが、科学的社会主義の理論を身につけるポイントではないかと思います。
これを今日の科学的社会主義の問題と結び付けて考えるならば、19世紀にマルクスがこう言っていたから、20世紀にレーニンがこう言っていたからと、今日の日本や世界でおきている問題をとらえようとすることは、その後の世界や理論の発展を無視した間違いに陥ってしまうことになります。私達は絶えずこの点を戒めて、現代におこっていることをありのままにとらえてその問題の本質は何なのか、そこからどんな発展の芽が育っているのか、それを育てるにはどうしたらよいのかを不断に学び、実践してゆくことが、科学的社会主義とはどういう理論なのかを身につけてゆく道筋であると思います。その過程でマルクスやレーニンの時代では思いもよらなかったような発見もこれからたくさんあるとおもいます。以上、いたらない文章でしたがちからさんの疑問への一助になればとおもいます。入門的文献としては不破哲三氏著「科学の目」(というタイトルだったか定かではありません)をお読みになってはいかがでしょうか?
それでは