私は、朗読と「読み合わせ」は全く違うものではないかと考えます。
「声に出して読むことが、その本人に何らかの効用がある」ということは、Hegelさんのおっしゃる通りなのだろうと思います。しかし、「読み合わせ」はそれを目的としていない。もしこのことが目的なら別に決定文書である必要はありません。
では「読み聞かせる」ことが必要なのか。目の見えない人や、文字の読めない人(仕事上、そういう方がまだいることを知っています)に対するものをのぞいて、全国一律に行う必要はないでしょう。むしろ、つっかえつっかえ読むのを聞くのは大変苦痛です。
何のために「読み合わせ」をするのか。建前で言えば、決定を論議し理解するために行われるものなのでしょう。しかしこの「読み合わせ」という風習は、果たしてその役に立っているのでしょうか。
「読み合わせ」の風景を自分の体験から思い出してみます。
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上級機関の決定文書をのぞいて、文書があらかじめ配布されていることは まれ。事前に配布されていても、「どうせ読み合わせをするから」と読んでくる者はいない。文書を持ってくることすら忘れる者もいる。
読み合わせが始まる。つっかえ、引っかかり、熟語の誤読連発。その間に黙読をしているほかのメンバーはずっと先まで進んでいる。しかし読む順番が回ってくるので集中はできない。自分の番が近づけば、あきらめていま読まれている位置に目を戻すしかない。
自分の番がくる。黙読ならすぐ読めるところを、一字一句発生せねばならない。意味がわからなくても後戻りするわけにいかないので、もうただの自動読み上げ機となるしかない。後は司会者の「ではそこから次の方」という言葉をひたすら待ちつつ、この苦痛に耐える。そして貴重な会議の大半はこれに費やされ、残る時間は質問のやりとりで終了する。
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1)初見の・2)洗練されているとは言い難い文章を・3)ナレーションの経験があるはずもない人たちが・4)議論のための貴重な時間を費やして・5)思考を止めて忍耐強く読み上げたり聞き続けている。
こうまでしてなぜ「読み合わせ」を続けるのでしょうか。そのキーワードは「読了率」にあると、私は考えます。
とにかくその場にいて、文書を目で追い・声に出して最後までゆけば、内容を理解していようがいまいが、論議をしていようがいまいが「読了」です。運良くメンバー全員がそろっていれば「読了率100%達成」です。
下手に論議をされて収拾がつかなくなるより、ずっと上級機関受けしますね。
歴史の試練に耐えた古典や、美しい文章は朗読に値するものと思います。それだって、事前に何度も読んだり要約を作ってこそ味わえるものでしょう。
(笑い)だの(拍手)だの感情を強要する駄文をいきなり読まされて人間の認識が深まるとはとても思えません。
「読み合わせ」のような悪習は撲滅するべきだ、と私は強く思います。