Hegel:Danke shoeon、 dass Sie an mich Ihre Meinung darstellen. (あなたが、私にあなたの意見を表現していただき、どうもありがとうございます.)
私は、朗読と「読み合わせ」は全く違うものではないかと考えます。
「声に出して読むことが、その本人に何らかの効用がある」ということは、Hegelさんのおっしゃる通りなのだろうと思います。しかし、「読み合わせ」はそれを目的としていない。もしこのことが目的なら別に決定文書である必要はありません。
Hegel:斜め読みで音読するのは極めて難しいけれど、時間があり、回りに迷惑がかからないときは、いつも私は音読です.電車の中でも、ぶつぶつ音読しています.でも、川原ででかい声を出して音読すると、とても気持が良い. 駅前で、音読していると、誰か聞いてくれるかもしれない。スピーカのマイクに近いところで一人音読を楽しんでいると、街中の人がみんな楽しくなるかもしれない。
では「読み聞かせる」ことが必要なのか。目の見えない人や、文字の読めない人(仕事上、そういう方がまだいることを知っています)に対するものをのぞいて、全国一律に行う必要はないでしょう。むしろ、つっかえつっかえ読むのを聞くのは大変苦痛です。
Hegel:つっかえつっかえ読むのを聞かせる方も大変苦痛です。私は、文書が良いと、即興で節をつけて読んでいます。
何のために「読み合わせ」をするのか。建前で言えば、決定を論議し理解するために行われるものなのでしょう。しかしこの「読み合わせ」という風習は、果たしてその役に立っているのでしょうか。
「読み合わせ」の風景を自分の体験から思い出してみます。
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上級機関の決定文書をのぞいて、文書があらかじめ配布されていることは まれ。事前に配布されていても、「どうせ読み合わせをするから」と読んでくる者はいない。文書を持ってくることすら忘れる者もいる。
Hegel:事前に予習してこないと恥をかきます。事前に配布しておかないと、恥をかかせます。忘れたら大恥です。
読み合わせが始まる。つっかえ、引っかかり、熟語の誤読連発。その間に黙読をしているほかのメンバーはずっと先まで進んでいる。 Hegel:その間に100回黙読すると、100倍分かります.100倍分かると、俺ならもっといいものが書けると自信が沸いてきます(簡単ですよ。悪いところだけちょこちょこと治せばいいんですから)。
しかし読む順番が回ってくるので集中はできない。自分の番が近づけば、あきらめていま読まれている位置に目を戻すしかない。
Hegel:一度に7人の人と話したという聖徳太子を目指してがんばってください。それができると、一度に7部赤旗が拡大できます。70000部まで行くと、あなたは将来、日本国の紙幣の表紙を飾るでしょう。国や貨幣が残っていればの話ですが。
自分の番がくる。黙読ならすぐ読めるところを、一字一句発生せねばならない。意味がわからなくても後戻りするわけにいかないので、もうただの自動読み上げ機となるしかない。後は司会者の「ではそこから次の方」という言葉をひたすら待ちつつ、この苦痛に耐える。そして貴重な会議の大半はこれに費やされ、残る時間は質問のやりとりで終了する。
Hegel:山は上る苦しみがあるから、頂上を極めたとき楽しい。活動は、本来、下る悲しみがないからもっと楽しいはずだ.今の共産党は、山あり谷あり。議長が山下りが好きだからだろうか。 -----
1)初見の・2)洗練されているとは言い難い文章を・3)ナレーションの経験があるはずもない人たちが・4)議論のための貴重な時間を費やして・5)思考を止めて忍耐強く読み上げたり聞き続けている。
歴史の試練に耐えた古典や、美しい文章は朗読に値するものと思います。それだって、事前に何度も読んだり要約を作ってこそ味わえるものでしょう。
(笑い)だの(拍手)だの感情を強要する駄文をいきなり読まされて人間の認識が深まるとはとても思えません。
Hegel:駄文という言葉は、美文をかける人以外は使用禁止です。
「読み合わせ」のような悪習は撲滅するべきだ、と私は強く思います。
Hegel:私も、かっこつきの読み合わせの悪習は撲滅するべきだ、と思います.というわけで、意見が一致しました.めでたしめでたし。
Auf Wiedersehen!(再見)