たまたま大学で、ローゼンクランツのヘーゲル伝(みすず書房)から、下記の引用を行なったので、ここにも流します。引用は、354頁です。フランス7月革命の話です。
だからこそフランスがそれにぶつかって疲労困憊するところの難問は、教会の改革を伴わぬ国家革命を遂行しようとすることだ、というわけである。とにかくヘーゲルはフランスにおける危機の進行に見られる特異性を原理的人間(オム・デ・プランシプ)と政治的人間(オム・デ・タ)との関係に、また主観的な自己決定という形式的な自由と具体的で特殊なものをめざす統治の必然性との関係にも認めた。そうすることによって彼は、反対派の人間が、内閣に列するや否やたちまち早変りして、以前に自分たちが攻撃したひとびとと同じような統治をおこなったという現象を説明した。それはかれらが今になってはじめて、平等、自由、人権という抽象的な原則と具体的で個人的な規定との間にはどのような差異があるかということに気づいたからである。フランスにおける現状(スタトウス・クオ)についてのこういう解釈を、ヘーゲルは宗教哲学や歴史哲学の講義の中でも明言し、それから、ドイツはこれに比べればはるかに幸運である。というのは一方で、ドイツでは世俗的な良心が宗教的な良心と区別されていないばかりか、多くのひとびとの自己決定、国家全体とその法律に対する自覚的な関与の欲求についても、生命を持った具体的な内容が護持されているからであると述べて、その証拠としてプロイセンの都市条例を引き合いに出したのである。
岩城克明
ps。ついでですが、宗教教育についても同書の別の箇所で、いんちき宗教に引っかからないためにもそれは必要である、という趣旨のことが述べてあります。 授業の息抜きに自分の信念を吐露するのは各教員の勝手ですが、未熟者が宗教的なことでそれをやって評判を落としたのは記憶に新しいところです。時代は違いますが、わが大学でも、随時公開講座などで名のある宗教者をお招きしてお話をうかがうような機会があってもいいような気がします。もっとも、その場合公開講座の実行委員は責任重大になりますが。