人文学徒様、ていねいなお便りありがとうございました。また私の未熟な投稿に過大な評価を寄せていただいて恐縮しています。
ただ私の未熟な投稿を「自分の頭で考えている」と認めていただいたことは嬉しく思っています。私の言っていることが未熟なものであることは私自ら認めるところですが、少なくとも私は自分の言うことの責任を誰かに偉い人に転嫁するようなことはいっさいしていないつもりだったからです。私はただ事実と論理にしたがい、具体的な人間の営みを土台にしてものを考えたいと思っているからです。
また人文学徒様が、ご自身のこれまでの攻撃的な論調を自己批判されている文章を拝見して、僭越ながら深い敬意をいだいたことも記させていただきます。私などは自己の対面を気にしてなかなか率直な自己批判ができません。人文学徒様の真摯な姿勢は大いに見習わせていただきたいと思いました。
さて私は歴史学や社会学を専門に研究してきたものではありません(私の専門は数学です、ただし裁判や日本古代史学に対する論文も書いています)。
また私は民主主義者(それも国際民主主義者)であり社会主義者であるとずっと自認してきましたが、マルクス主義者だと思ったことは若いときから今まで一度もありません。
また私は特定の宗教を奉じるものではありませんが(仏教やキリスト教の理想に共感するものはあります)、唯物論者ではありません。私も大学生のときにレーニンの『唯物論と経験批判論』や『哲学ノート』を読み影響を受けたこともあるのですが、現在では宇宙や生命への畏敬、人間の尊厳を考えない唯物論を軽薄な哲学だと思っています。
さらに私はマルクスを偉大な思想家だとは思っています。人類社会が持つ搾取と疎外を体系的に問題にした思想家はマルクス以外にいないからです。ただし私はマルクスを出発点とするのではなく、現実から出発し、マルクスのどこが正しくどこが間違っていたのかという問題の立て方をしています。
以上のような考え方を私はしていますので、議論の仕方によっては話がかみ合わないことが多々あると思いますが、いろいろご批判、ご叱正がいただければありがたいと思っています。とりあえず御礼まで。
赤根様。レスありがとうございました。すぐに返答しないで失礼しました。お詫び申し上げます。
実は史的唯物論に対して、私は若い頃から友人・知人とだいぶ議論をしてきました。私には世界史の現実そのものが史的唯物論の間違いを示しているとしか思われないのに、それを擁護する方はいつのまにか、歴史の事実から離れ言葉の解釈論に移行してしまう(と私には思われた)経験を、何回も何回も繰り返してきました。
これは私の誤解かも知れませんが、赤根様の疑問もそのような議論に移行するような印象を受けました。ですから赤根様にどのようなご返事をすればよいか(私の力量不足ということですが)思い浮かばなかったというのが実状だったのです。
しかし人文学徒様からの頼りをいただくと、やはり放置したままにはできない問題であるとも思いました。ただいきなりその問題に入るよりも、私の考えている「観念が(も)歴史をつくる」事例をもう少し挙げさせていただきたいと思います(このサイトで少しずつ挙げさせていただく所存です)。
勝手な話で恐縮ですが今少しの時間をいただきたいと思うのです。