この前の日曜日、河川敷が発達した川にチャリンコで出かけました。
桜が満開で、また私のハンドル名の原因ともなっている大きなクスノキの青葉で春を味わう為です。
少し汗をかきつつ走っていると青いテントのホームレスの人たちが昨年と比べ随分多く目につきました、そして比較的若い人が目立ったのです。
このところこの国の失業率は高止まり安定と政府は発表しています、しかし私が職探しの為に訪れる職安にも、朝から多数の若い人たちの姿が目につきます。
自分自身のことながらこの深刻な雇用情勢に「何が景気回復だ」と反発し、怒りを蓄積しています。
余り肌身で感じる客観情勢を書くとまたお叱りを受けるのでこの辺で止めます。
私たちの共産党宣言の勉強会の目的の一つは、やはり若い頃「必読文献」としての古典理解がどうしても「ともかく読む、読んだ事にする」ことに流れ勝ちではなかったか、との反省から出発しています。
だから党宣言でマルクスが書いていることについて、一行一句その時代背景を確認し、様々な史料や年代を絡め検討し、そして必要なものについては現在私達が直面している事、職場体験と照らし合わせ理解を深める様にしています。
この作業を行なうことによって初めて「党宣言を読んだ」と言えるのではないか思い進めているのです。
その為どうしても1日に2・3ページしか進まないスローライフ的な勉強会ともなっています、そこに新しい発見もあるのです。
そしてご指摘いただいた労働者階級が97・8%と書いた件、単純な引き算ですが、確かに仰る通り書き方としてはまずかったかなと反省しています。
しかし現代の社会においてブルジョワと言われる支配階級はほんの2・3%で、彼らが労働者階級が作り出した富(剰余価値)の大半を独占しているのだと、強調する為に表現したものです。
個別的検討に入りますが、正直、勘太郎さま、この国の中小企業主に労働者とかけ離れた生活をしているブルジョワや中層富裕階層的と言われる人が、存在しているとお思いでしょうか。
彼らの大半はそれこそ、雇用した労働者と一緒になって汗を流し倒産の恐怖からのがれるために必死で働いていると思います。
大手メーカーの中国やアジアへの進出による産業の空洞化は彼らに大打撃を与えています。
これは東京・大田区や東大阪などで典型的に見られる中小企業の実体かと思います。
また農民にしても、この国の農業政策が基本的に破産している事から、この国の農業はその大半が「爺ちゃん婆ちゃん農業」に依存せざるを得ず、また「農業の企業化」に取り組む人たちも殆どが、汗を拭きながらの、かつかつの経営だと思います。
その下で働く人々は農業労働者ですから、中国共産党的表現での「富農」など、残念ながらまず存在しないと思います。
労働者階級以外と言われる人のも殆ど同じ様な生活を強いられているのであり、この中からブルジョワジーに登り詰める人はまずいないと理解しています。
やはり今更ながら思い出すのですが、かつてのバブル全盛期にマスメディアを使って流された日本人の「中流階級意識」など買わせる為の誇張、嘘っぱちであったことは明らかです。
なんと言っても近年の若者の失業率の高さと、定職についても年収200万円にも及ばない人が大半と言う深刻な雇用情勢、また高齢者の人々の相当部分が月一桁万円台の年金で日々、生き延びていかざるを得ない状況は、150年前マルクスが確認し思い描いていた労働者階級の貧困とさして変わりないと思います。
しかし、それでも飢餓に直面する人々が十数億人という世界に目を向けると、私たちはまだ裕福なのだと認識せざるを得ません。
やはり私たち労働者階級・プロレタリアートは社会の主人公である事を再確認し、このブルジョワ社会、帝国主義社会での紛れもない墓堀人である事をより自覚して、ブルジョワジー打倒、帝国主義打倒のため闘って行かねばならないと考えています。
マルクス主義古典から学ぶべきことは、今の私には手に余るほどに多く、素晴らしいと思っています。その社会観は現代をも鋭く突いていると思っています。
もっともっとよく学習し、少しでもいいから我が物にしたいと思っています。
勿論、それらを暗記的に、また教条主義的に読むのではなく、弾力性をもつて知る喜びをもって学びたいと思います。
150年前にマルクスが労働者階級に期待した事の、ほんの僅かしか私達が実現していない事の確認の上にー。