老学生さん、はじめまして。貴兄の4日付け投稿での不破氏の誤読のご指摘、その主旨、全くそのとうり。
不破氏は(そしてスターリン、レーニンなどこれまでのほぼ全ての「20世紀マルクス主義」者達もですけれど)、マルクスの社会主義理論の根本を全く理解していません(レーニンは晩年の『哲学ノート』の記述からも多少はそのことについて自覚的だったようですけれど)。
老学生さんのご指摘は、23回大会討論誌での有田氏のレーニン批判、故中村静治氏等の議論などとも関連していますが、一つの自然史的過程であるはずの資本主義的生産様式の解明を資本関係を単に肯定的に媒介するだけの安定的構造連関の記述に貶め、社会主義運動の課題をそれに対する主意主義的政治的改造に矮小化して理解する階級闘争史観的社会主義論(宇野理論もこの裏返しである)は、ソ連・東欧の旧体制の崩壊によって、メダルの裏面である社民主義と共にとっくに歴史の審判が下っていると思います(不破氏にもみられる、世界観における「構造」把握と「歴史」把握の分裂という破綻)。
「科学」を「空想」と分かつメルクマールの一つであるとされていた(私は、この解説自体にも異論はあるのですが)剰余価値(つまりは投下労働価値)理論の根本をマルクス以後のマルクス主義者が殆ど理解していないことは、いわゆる「生産的労働論争」の経過や「到達点」を(そして「論争」の存在自体を)ちょっとサーベイしてみれば一目瞭然です。マルクスの労働価値論とは、スミスやリカード等の理論とは根本的に異なり、投下労働価値の止揚(撤廃)までもを射程に入れた理論であることが、『要綱』の中に散在する叙述からだけでも明らかだからです。
この「止揚」は、「資本の自己批判」として、マルクス主義とも無縁な人類(の一部)にさえ既に自覚され始めています(欧米での「著作権問題」を巡る議論などもご参照あれ)。「商品」という「形態」は、精神的生産部門にまで及んだ労働の社会化の進展の下、その「質料」との矛盾を顕在化させ、矛盾の止揚(撤廃)を社会的労働の発展の死活問題としています。「著作権は守ります」などと、共産党幹部が暢気な発言をしようがしまいが、「質料」は、「形態」に無関心な単なるGrundlage(根底)ではなく、「形態」を否定的に統一する Grund(根拠)だからです(「質料」「形態」「根底」「根拠」などについては、有井行夫著『マルクスの社会システム理論』P.57より)。
まっ、根は深そうですね。