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「科学的社会主義」討論欄

自由と必然性について

2004/05/30 百家繚乱 50代 事務職

 トロツキーは「わが生涯」において、「もし、生物学用語を使うとすれば、歴史の合法則性は、偶然性の自然淘汰を通じて実現される。そしてこの基盤の上に、偶然性を人為淘汰に従わせる人間の意識活動が展開される。」と、言う。
 この人為淘汰とは、経済上では市場原理となり、政治上では選挙じゃないかと思う。
 人間の自由な意識活動と言うものは、偶然性と人為淘汰を排除して、官僚的に統制することではない。
 個々の人間の知的活動を、官僚的に統制しようとする試みは、人間の自由な知的発展を阻害し、組織の陳腐化と腐敗を招くだけである。
 自由な意識活動は、むしろ、このような官僚的な統制を排除して、個々の人間の自由な創意工夫と空想(偶然性)を人為淘汰に従わせることで実現する。
 長い間、左翼の世界では、市場原理は弱肉強食・不平等化と同列に見られてきた。
 しかし、どんなスポーツも競争を排除したら、発展も、余暇としての楽しみでさえなくなるだろう。
 経済においても、競争を排除して、発展することはありえない。
 ただ、経済においては、スポーツとは違って、最低保証とか、敗者復活の仕組みを整備する必要がある。
 特に、「市場の失敗」と言う現象には、公共的な政策が不可欠である。
 しかし、人間の自由な経済生活においては、市場原理が不可欠であり、この市場の自由な発展を通じてこそ、社会主義的な経済の発展も可能となる、と考えるべきだろう。
 特に、社会主義思想は、一国的なものではなく、国際的なものである。
 この社会主義の国際性は、政治的なものだけではなく、経済的な国際性をも意味している。
 多様な民族は国境を越えた経済的な融合によってこそ、政治的な融合も可能となる。
 今日のグローバルな世界経済の発展こそ、新しい社会主義の基盤を準備している、と考えるべきだろう。

 政治上においても、何か特定の前衛党が、あらかじめ政治的な必然性を認識し、大衆はその政党を支持し、従えば、理想社会が実現するような幻想が、左翼を支配していた。
 こんな幻想は、全く、家父長的で官僚的な「前衛党」を生み出しただけである。
 スターリンの「前衛党」は、政治から、偶然性と人為淘汰を排除することによって、自由と知性を排除した。
 そうすることによって、この「前衛党」は、労働者階級の完全な後衛(=光栄)となった。
 労働者階級は、知的になればなるほど、多様で多元化する。
 労働者階級を代表する政党・党派も、多様で多元化するのは当然である。
 様々な党や党派の自由な創意工夫と空想(偶然性)を人為淘汰(選挙)に従わせることこそ、労働者階級の政治的な権利を保障する。
 今日のような日本社会では、己自身が多様で多元的なシステムでなくては、多数派を代表することは不可能である。
 従って、己自身のなかに、様々な党派のオープンな選挙システムを持つべきだろう。
 今日の日本共産党は、もはや、権力の獲得を真剣に考えている政党だとは思えない。
 従って、日本共産党は、もはや、革命政党だとは思えない。