人間の意識は物質の「自己脱出的進展」である。この物質の「自己脱出的進展」は、生命体から始まった。
生命は合目的的な物質支配の始まりである。生命体においては、まだ、物質は自己脱出できているわけではない。自然淘汰においては、ある結果をもたらす遺伝子が優先的に選ばれ、保存される。こうして生命体においては、自然淘汰の力によって、結果が原因となった。遺伝子の生命体からの自立性は、淘汰の過程で獲得された。遺伝子は、己の像に合わせて、己自身を創造する自立化した反映体である。また、遺伝子は、その点で合目的的な運動体でもある。ただ、遺伝子は反映体であっても、当の物を意識しながら、創造しているわけではないし、ましてや、外的な自然の反映でもない。
それに対して、高等動物の神経組織は、人間と同じように、外的な自然を写像として持っている。この写像は、外界の反映体である。高等動物においては、この反映体に基づいて、己の運動諸器官を合目的的に制御する。喉に管を入れられたミツバチは巣の外に蜜を垂れ流しても、目的を達したかのように行動する。この場合は「巣の中の蜜」は外的な自然の反映体となっていない。こんな昆虫行動の延長上で、高等動物の条件反射行動を理解する事は出来ない。高等動物の目的意識的な行動は、条件反射行動では明らかである。条件反射行動では、外的な自然の反映体が目的として機能しているから、この反映体は外的な自然の意識である。しかし、この反映体は、遺伝子のように、己の像を創造するような反映体ではない。動物の神経組織は、外的な自然に対応して、己の諸器官を合目的的に制御するけれど、外的な自然そのものを、合目的的に創造するわけではない。従って、動物の意識は、反映している当の物から自立しているわけではない。肉体諸器官を、合目的的に制御しはするが、自らの設計図に合わせて創造するわけではない。この設計図は、依然として遺伝子が確保している。・・・(文字化け)・・・。
人間の意識は、この動物の意識と生命体の自立性の統一である。人間の意識は外的な自然そのものを創造する意識・反映体である。人間は、意識の内部で産まれた自然の写像を、外的な自然に、物理的に押し付ける。従って、人間の意識は、物質自身の自立化した反映体である。このような統一性は、一体、どのようにして獲得されたのか?長い間、人間は道具によって、猿から己を区別した、と考えられてきた。今日では、このような考えは、だいぶ少数派になったように思われる。生命体においては、個体発生は系統発生を繰り返す。ピアジェの言うとおり、人間においても、系統発生は個体発生において顕現する。人間の幼児の知性は、言語獲得によって、飛躍的に拡大する。我々の思考は、己自身との会話・コミュニケーションである。つまり、他者との外的な会話が、己自身との内的な会話に転化したのが思考である。道具の創造は、この思考能力の実証性・現実性を証明する。従って、認識過程における実験の意義は、極めて大きいが、実験そのものが、認識の原因なわけではない。道具の創造は、人間意識の自立性の結果なのであって、原因ではない。
人間の言語は、己自身を含めた世界の反映である。そして、この反映は、思考の中で、自由に飛び回り、相互作用し合う。そして、ある一点で、新しい象を取り結ぶ。この新しい象は、己の姿を、現実の物質に押し付ける。このようにして、人間は、己の意志を、世界に押し付けようとする。これが、人間の最初の幼稚な知性・自由である。しかし、この自由・知性は、偶然性の人為淘汰によって、実証されねばならない。芸術的には人気、科学技術的には実際的有効性、経済的には市場原理、政治的には選挙等々である。人間の意識活動は、創造活動だけじゃなく、この創造活動自体を、人為淘汰に従わせるという実践活動が不可欠である。人間の意識活動においては、自ら将来を予見し、計画を立てて活動する事が不可欠である。しかし、この意識的計画的活動は、人間から自由と淘汰の力を排除することによってではなく、むしろ、この自由と淘汰の力を利用して、実現しなくては成らない。官僚的な統制、つまり、相手の自由を奪うことによって、己の意志を実現しようとする事は、最初の幼稚な知性・自由でしかない。
自然淘汰においては、弱肉強食・優勝劣敗・適者生存の原則が、厳しく働く。しかし、長い目で観察すれば、ある特定の器官・機能の弱点が、他の器官・機能の補強によって、長所になる事は珍しくない。こうして、生物の世界においても多様で多元的な種の発展が展開された。人為淘汰の過程は、この生物界における系統発生の個体発生的な展開である。人間の世界における人為淘汰は、むしろ、この弱肉強食・優勝劣敗・適者生存を乗り越えようとする運動である。知性は、己の弱点を補強し、むしろ、この弱点を長所に転化させようとする。また、人間の知性は、個体的な弱点を、集団的な力で補強しようとする。人類世界は、夥しい戦争を繰り返しながらも、益々、地球上で一体化しつつある。
独占と寡占は市場原理ではなく、「市場の失敗」である。市場原理が有効に機能するためには、市場が公平・公正・公開であらねばならないし、敗者の復活の機会が均等に与えられていなければならない。従って、市場は弱肉強食ではなく、むしろ、それを乗り越えようとするものである。一時的な優勝劣敗・適者生存は当然だとしても、人類の多様で多元的な社会の成長と発展は、人類全体の共存と共栄を加速するだろう。市場原理は人間の不平等を加速するのではなく、人間の自由な経済生活を通じて、共存と共栄・平等化を加速する。「資本は自己増殖する価値である。」従って、資本は放置すると、自ら市場の失敗を招き、市場原理そのものを破壊する。この破壊を防ぐためには、社会的な規制と人間の戦いが不可欠でもある。
長い間、左翼の世界では、この資本を国有化することが社会主義であると勘違いしてきた。そして、人間の意識的計画性を官僚的な統制と同列視してきた。人間の意識的計画性は、自由な市場と人為淘汰を排除する事によってではなく、むしろ、これに従わせることによってこそ獲得できる。資本は盲目的だから、利益誘導によって、社会的な責任を果たさせることは十分に可能である。人間の意識的計画性は、相手の自由な意志を奪うことによって達成するのではなく、自由な意志との合意によって達成される。自由で民主的な選挙で選ばれた者達が、この合意を獲得する上で権威を持ち、有利になる。人間の意識性と計画性は、徹底した自由と民主主義を求める。そして、この自由と民主主義によってこそ、人間の意識性と計画性が展開する。
レーニンは「意識は物質の外部にある」と言う。人間の意識は、物質の自己脱出的進展であるから、一面において正しい。しかし、人間の意識は、物質を意識(ロボット)化しつつあり、また、己自身を物質(機械)化しつつある。意識もまた、所詮、物質の運動である事には変わりない。物質の意識的運動は、己の外部にある己自身(反映)を媒介にしながら、己自身を回復する運動である。物質の世界は、盲目的でアナーキーな世界から、合目的的で意識的な世界へと進展する。生命体は、遺伝子を媒介にしながら、己を進化させてきた。同じように、物質と自然は、人間の意識を媒介にしながら、己自身を進化させている。我々は、宇宙を観察する。しかし、本当の所は、宇宙自身が、我々を媒介にしながら、己自身を観察している姿なのである。我々人類の意志はこの地球の意志である。この意志が、地球と共に生きる合目的的で自由な意識的力を持たなければ、この地球は我々の意志を解体するだろう。