山本進さんの投稿に関わって一言述べさせていただきます。
レーニンの『唯物論と経験批判論』について書かれた山本さんの投稿は、基本的事実に立脚していないと思います。
たとえば、レーニンが批判したマッハ主義者の一人のボグダーノフは、有名なボルシェビキでした。また、「国民の経験を批判している」というのは何を意味しているのかわかりませんが、レーニンが批判したはマルクス主義陣営内(ボルシェビキ・メンシェビキを問わず)の20世紀初頭の新しい哲学的潮流ですよね。
私の理解では、レーニンの『唯物論と経験批判論』の欠点は、彼が素朴反映論の立場からの「批判」をしている点です。マッハは物理学の進展が寄与したし、相対性理論を知っている私たちからすれば、レーニンがいかに単純な思考をしていたか、その欠陥はすでに明らかですが、一番の問題は、<精神から独立した物質の実在性→その意識への反映=認識の無限の接近可能性>、そしてそれを基礎にした<客観的真理の獲得の(政治的)党派性>というスターリン主義への道を準備した点にあるのではないでしょうか。
その問題意識は、以下のような事柄と結びついています。
レーニンが民主主義を「マルクス主義的に」誠実に希求していたことや彼が政治指導者として卓越していたことは勿論のことなのですが、彼自身がスターリン主義=左翼全体主義の源泉を思想的に準備し、実践的端緒を開いたことは確かだと思うのです。
彼の『唯物論と経験批判論』にみられる認識論的枠組みと前衛党論・プロレタリア独裁論が組み合わさり、彼が「ブルジョワ的」と唾棄する立憲主義的権力制御や法の支配に基づく統治機構の欠如は、後の警察国家・収容所国家を必然的に準備しました。また、一国一工場論による計画経済=<市場の否定>と、直接的に社会的な労働編成への前進という展望(=>共産主義では黄金で公衆便所をつくる!という貨幣廃止)が、左翼全体主義者による集権的・官僚的・強制労働的経済を準備したわけです。
ということで、すごくあらっぽく言えば多分、山本さんの問題意識と私は共通したものも持っていると思います。
社会主義の崩壊を知っている私たちからすれば、マルクスもレーニンも欠陥があったという世界的に共有されている直感は間違っていないでしょう。しかし、彼らの思想や理論がどうしてファシズムにも似た全体主義と結びついたのかを抉り出しておかなければ、形を変えて同じことが繰り返されます。カントやルソーやロックやケインズやフーコーが偉大であったように、マルクスやレーニンやトロツキーやローザが偉大であった(だけに罪深いのですが)ことは確かだからです。それらをまったく読まないで「時代遅れだ」などレッテルをはるだけなのは、それらを聖典化したりカリカチュア化した毛沢東・ポルポト・金日成らと変わらない精神のあり方のように思います。
もちろん、未だに戦後日本の流行思想だったマルクス・レーニンの権威を本尊化して、現代の経済・政治・社会の学問的進展背を向けている一部革新派の人々の後ろ向きの姿勢はどうしようもないことは確かですし、日本共産党中央の官僚主義を批判される人々でも、そのバックボーンである科学的社会主義=マルクス・レーニン主義をきちんと批判する人があまりいらっしゃらないように見える点も、中途半端さを感じてしまう面はあるのですが。