マルクスの時代の共産主義者同盟は、アナーキストと共産主義者の同盟だった。マルクスは、アナーキストは考えに合わないからと言って、アナーキストを排斥したりしなかった。共産主義であろうと、社会主義であろうと、いろんな考え方があって、当然なはずだ。ところが、スターリンはレーニンを利用して己を神格化し、己に従わない者は、革命の裏切り者・スパイ・挑発者として排斥・弾圧した。今日の日本共産党は、まだ、この時代の共産党から完全に決別できていない。党は、様々な社会主義の考え方を受け入れるべきだ。共産党が一枚岩を維持する限り、共産党中央と異なる考え方をする社会主義者は、共産党に魅力を感じないだろう。
私は「科学的社会主義」という概念に疑問を抱いている。確かに、社会主義を空想から科学に高めることは、大事な認識方法だと考えるが、この概念は、何か、物理学の真理のように曲解され、一元的で独善的な「社会主義」に悪用された。物質の複雑性は、無機物・有機物・生物・動物となるに従って、極めて高くなる。複雑性が高くなればなるほど、様々な解釈が可能となるし、多様な視点からの観察が必要となる。ところが、人間になると、この複雑性は幾何級数的に高まる。我々の住んでいる社会は、極めて複雑で、多様で多元的な社会である。このような社会で、何かの「実践」というものをするには、一元的な「科学的社会主義」だけでは、何も見えない。多元的で、多様な視覚から観察する能力を持たねば、何も見えない。地位・党派の如何を問わず、一人一人の持っている、空想・発想を大事にしないと、大切な視点を失うことになる。
創造は想像から生まれる。古い常識に拘束されない自由な発想から、偉大な発見・発明が数多く生み出されてきた。革命も同じようなものである。未来に対する多元性を承認しないと、常識に拘束されない自由な発想は生まれない。共産党は、日本社会の中でそれなりの大きな影響力を保持している。それを保持しつづけるためには、党中央の認識は、否応なしに日本社会の常識に拘束されている。共産党が、日本社会の中で、創造的なリーダーシップを保持しようと考えるならば、この常識に拘束されない個々の党員の自由な発想・空想を大事にしなくてはならない。党中央に反する意見の公表を禁じることは、個々の党員の自由な対話・議論を禁じるのと同じである。このような規則は、党員の知性の自由な発展を阻害し、劣化させる規則でしかない。こんな官僚的規則からは、どんな革命も、社会発展も生まれない
先ずは、党中央と異なる見解であっても、意見を公表する権利を認めるべきだ。これは、基本的人権と同じようなものである。「公表したいなら出てゆけ」と言うような政党が、果たして、国民の基本的人権を守れるのだろうか?それから、党中央の意思決定過程を公開で透明なものにすべきだろう。党内の論議が、不透明であれば、国民は信頼できないし、党員も党の主人として考え論議することは出来ない。党員一人一人が党の主人として考え、自信と確信を持つには、党中央の議論を、公開で透明なものにすべきだろう。今日のような秘密主義は、考えるのは党中央で、党員は中央の決定を学び実践するだけでよい、という構造になっている。
昔、全共闘なんかが、暴れていた頃の反戦運動は群雄割拠だった。今日の時代に、同じ事を求めても、それは不可能だ。ただ、どんなに時代が変わろうと、形が変わろうと、大衆のエネルギーは、群雄割拠の形でしか爆発しない。この運動に、一元的なものを求めれば、運動は宗教的なものになる。自らの内部に権威の体制を作ってしまえば、それはもはや大衆のものではない。運動には方向性が必要だ。そのために自然と権威が発生する。しかし、その権威は体制化すると共に破綻する。
株式市場は興味い。常に、群雄割拠で、権威は生まれると共に破綻する。「生き馬の目を抜く市場」と「共に助け合う運動」を比較するのは筋違えのように見える。しかし、株式市場では、環境問題や社会問題で評価されない会社は見捨てられる。反戦運動内部でも、過去の歴史を見る限り、「生き馬の目を抜く」権力闘争を繰り返していた。権力闘争が悪いのじゃない。むしろ、この権力闘争を否定したり隠したりする体制こそが問題になっている。「生き馬の目を抜く」戦いが無い市場や運動は、自ずと腐敗する。どんな運動も、どんな市場も、「共に助け合う運動」と「生き馬の目を抜く権力闘争」が共存しなくては発展しつづけることは出来ない。
株式市場は、徹底した自己責任の世界である。それでいて、夢の無い会社は見捨てられる。人間は、誰でも、夢を持って生きて生きたいと思う。だから、夢のある会社は、市場で高く評価される。共産党にも、生き生きとした夢のある時代もあったと思う。しかし、今日の共産党は、「兵どもの夢の後」しかない。一人一人が夢とロマンを持って語る事が出来る共産党を、もう一度、今日の党員は考えるべきではないだろうか?そのためには、党員一人一人が党の主人であり、党の問題を党員一人一人の自己責任の問題として考える必要があるだろう。
平和と言うものは大切にしなければいけないが、日本人は、これを大切にしすぎて、自己主張の権利まで放棄しているようなところがある。己の権利を主張すると「我が儘」「独り善がり」と言うような批判が帰ってくる。共産党の世界でも、内部ではこうした風潮が見られる。昔、上田耕一郎が、共産党を除名になった元幹部のことで、「彼は、よく、俺が俺が、と言う意識を持ちすぎた」と批判した。私は、こういう発想こそ、共産党をだめにしていると思う。党員一人一人が党の主人であらねばならない。「俺が共産党を変えてやる」「俺がこの日本を変えてやる」と言う元気を、失わせ、失った党員が評価される組織構造になっている。
ブルジョワジーと労働者階級は、相互に戦いあいながらも、相互に浸透し合ってきている。民主主義社会では、ブルジョワジーは、己の支配を維持するためには、労働者階級に多くの妥協を図り、彼らを味方にしなければ己の権力を維持できない。少なくとも、ブルジョワジーを追放したと言うソ連東欧よりは、遥かに、ブルジョワジーに支配されていると言う西側の方が、労働者階級にとって、住み心地が良かったのは事実である。なぜ、こんな事になったのか、今日の左翼は真剣に反省する必要がる。古いイデオロギーを、無理やり押し付ける体制・組織は、口先では「労働者階級の味方」を標榜しても、中身は、己のセクト的利害しか眼中になく、このセクト的利害のためには、平気で労働者階級の利益を犠牲にする、という事実を指し示している。むしろ、ブルジョワジーの方が、己の権力を維持するために、真剣に、労働者階級の利益を擁護した、と言う事実をも指し示している。「社会主義体制」とは、国民のための体制ではなく、共産党のための体制であった。この共産党は「民主集中制」によって、国民から党官僚の利益を守ったのである。
民主主義社会では、政権を目指さない政党は、国民から見捨てられるだろう。かなり多くの党員は共産党は「民主集中制を守る事によって社会党のように解党しないですんだ」と考えているように思われる。これは、全くの時代錯誤である。日本社会党は、長年日本の左翼を代表しながら、政権を取る事が出来なかったばかりでなく、政権自体をも目指していたとは言いがたい。社会党の解党の最大の原因はこのことに尽きる。国民の政権交代への願いに背を向けつづけた事が解党の最大の原因である。日本共産党も、国民のこの願いに応えようとしないならば、いずれ社会党と同じ運命を辿らざるを得ないだろう。政権への夢を失った政党に、青年が惹き付けられる訳がない。「民主集中制」の原則は、党を守った原則ではなく、党から夢と活力を奪う原則としてしか機能していない。ソ連と言う歪んだ体制が世界に君臨していた時代では、「民主集中制」に夢があるかのような幻想が、西側の左翼の世界で通用した。しかし、ソ連解体後の今日の世界では、こんな組織原則は青年を引き離す力にかならない。政権への夢を捨てた左翼政党は、もはや、革命政党ではないし、そこからはどんな革・・・(文字化け)・・・。