私は、エンゲルスの「自由とは、必然性を認識し、実践する事である」と言う定式には、だいぶ苦労した。今日では、このエンゲルスの定式が、社会主義運動に大きな混乱をもたらしたと考える。かつて、日本共産党は、70年代の遅くない時期に「民主連合政府」を作ると空想した。こんな空想は、エンゲルスの定式からくる妄想であると考えざるを得ない。この定式では、「既に決まっている未来社会を認識し、そのために己を従属させる」事が「自由」であるとなる。秘密主義によって、情報を独占している党中央に従属する事が、共産主義者にとっての義務であり、「自由である」となった。スターリンの下では、この「自由」は、党内に「10パーセントのスパイ」を摘発する事を、共産主義者の義務にした。この「自由」はとんでもない恐怖政治を生み出したのである。
トロツキーは「戦争は未知数の方程式である」と言う。これは、戦争だけではなく、革命にしても、未来社会にしても、同じ事である。我々は、未来に関してやれる事は、出来るだけ未知数を少なくして、目標とする社会に到達する可能性を広げる事だけである。現実の未来社会は、様々な偶然的・自然的要素も絡み合いながら、多様で多元的な政治勢力の力学で決まる。実際に到達する未来は、我々が想像したものとは、かなり違ったものとなるかもしれないが、我々の「平和と民主主義」への願いと努力は、それが真摯で知的なものであれば、十分に反映した社会となるだろう。自分達は、他の政治勢力とは違って、「必然性を認識し、実践している」という考えは、傲慢と独善にしかならないし、こんな無知(=鞭)は反映しないほうがよい。
マルクスは「必然の王国」から、「自由の王国」へと言う。マルクスは必然性からの解放を、自由と考える。我々人間は、様々な自然的・社会的制約・規制の中で生きている。「自由」とは、この制約・規制を取り払い、己と他存在を己の意志に服属させる事である。意志を持たない自然が、他存在である場合は、環境問題に適応している限り、問題は起こらないだろう。しかし、この他存在が、集団・個人である場合は、意志の合致が自由となる。合致できない場合は、合致の拒否・留保の権利が、自由となる。党中央への無条件的な従属は、己の自由な意志の放棄であり、「必然の王国」への逆行である。党大会での満場一致は、自由な意志を放棄した者達が繰り広げる、自画自賛の饗宴のようにみえる。日本社会と共産党の未来を、己の頭で考え、他人任せにしないならば、少しは意見の対立が起こるのは自然の姿じゃないだろうか?
レーニンとトロツキーは、革命に怯える党内で、度々少数派になった。このような時は、彼らは、直接にロシアの労働者階級と兵士に向って、革命のメッセージを発信して、革命を願う大衆の力で、ボルシェビキを教育した。今日の日本社会で果たしている日本共産党の役割りは、他の党のだらしなさによって、それなりの輝きを持っている事を否定するつもりはない。しかし、「民主集中制」という秘密主義の壁の内側に立てこもっていたのでは、党中央は国民大衆から目隠されているだけである。
レーニンと合流する前の若きトロツキーは以下のように書いた。
「同志レーニンはひかえめな評議会を全能の公安委員会に変えた。『清廉な』ロベスピエールの役割を引き受けるためにである。邪魔ものはすべて一掃されなければならなかった。そして、同志レーニンはイスクラ的なジャコバン派を粉砕することをためらわなかった。評議会を通じて『徳と恐怖の共和国』を邪魔されずに樹立できさえすればいいのである。」「このような体制は長く続くことはできない。『恐怖政治』の体制は反動にぶつかる。パリのプロレタリアートは、自分たちを貧困から脱け出させてくれると期待してロベスピエールをまつり上げた。しかし、独裁者は彼らにあまりにも多くの処刑を与え、あまりにもわずかなパンしか与えなかった。ロベスピエールは没落しジャコバン派全体を道連れにした。そして、それとともに民主主義の事業一般を道連れにした。」
この若きトロツキーの予測が実現した時は、あまりにも、遅かった。もちろん、レーニンとロビスピエールの果たした役割は同じではない。レーニンはロビスピエールのように同志を処刑台に送ってはいない。むしろ、これを堅く禁じていた。しかし、レーニンの「民主集中制」は、レーニン死後、直ちにロベスピエールと同じ役割を果たし始めた。
マルクスは、ロビスピエールを弁護する。それは、ジャコバン派の残骸の上に社会主義が立ったからである。第二インターは社会主義の精神を保持したが、妥協主義的で、戦争の問題ではふらついていたが、この中から、本当の社会主義革命が起きたことを重視すべきである。第三インターは、第二インターが産み出した革命の結果として、その神聖化として産まれでただけである。確かにこのインターは、少なくとも、初期のうちは世界革命の精神に満ち溢れていた。しかし、スターリンの「一国社会主義」「社会ファシズム論」と共に、反革命の道具になってしまった。トロツキーは第三インターの残骸の上に第四インターを夢見た。これは、今日では、完全に破綻した。第四インターは、第三インターの神聖化の焼き直しに過ぎなかった。
革命というものは、特定の人間・思想を神聖化することでは、絶対に起きない。革命は、己を拘束する一切の束縛からの解放を求める人間の叫びである。従って、第三インターの敗北は不可避だっただけでなく、第四インターの泡沫的運命も不可避だった。どこに向うか分からない第二インターこそが、人間に可能性と希望を与えることが出来た。自由で創造的な人間、従って、革命的な人間は己の頭で革命の道を見え出そうとするものである。第三インターの神聖化は、革命を目指そうとする青年の自由な精神を奪う役割りしか果たさなかった。他人や組織への隷属は、反面で己への他人や組織の隷属、の願望を生み出す。ゾルゲや尾崎の人生が語るように、人間は自由なのであって、他人を隷属させることに誇りを見い出すものが、革命家であることは絶対に出来ない。
今日の世界では、情報公開の原則が広がっている。これは、一種の内部告発の制度化のようなものである。内部告発の仕組みを持たない集団は、世界のグローバルな競争で、忽ち、その力を失うだろう。「民主集中制」の制度はこの内部告発の動きを完全に封じる制度である。「上級機関の許可なしで、勝手に意見の公表を禁じる。」これほど官僚機関の腐敗と堕落を守る制度はない。国民に対しては、都合の良いとこだけ見せ、言う。悪いとこは「見せない、言わない」。こんな政党に、果たしてどんな革命が可能なのだろうか? 国民に対して、都合の良いことだけ見せ、悪いことを見せれば「反革命・裏切者」になるだけだろう?むしろ、今日の革命家の条件は、このような一切のデマゴギーと裏切りを告発する勇気こそが、求められている。
社会愛国主義は誰でもが陥りやすい間違いである。今日の左翼が、貿易問題で陥っているように。レーニンやトロツキーは世界大戦が産み出した英雄であって、こんな英雄になることも、こんな英雄を期待することも、実に馬鹿げている。我々は、彼ら英雄の残骸の上に立っている。ここから先は、自分の頭で考えるしかないし、多様で多元的な自立的知性しか、未来を掴めない。我々は、もう一度、再び、ロシア革命を産み出した第二インターの多様性と多元性に、立ち返るべきではないだろうか?どんなイデオロギーを自認しようと、多様性と多元性を否認する政党に未来はない。人類は多様性と多元性に向って、前進してきたし、前進しつつある。ブロードバンド革命はこの前進を加速度的に早めつつある。従って、この流れに逆らう政党は、例えどんなイデオロギーを自認しようと加速度的に落下せざるを得ないだろう。ブロードバンド革命は、我々の世界を、加速度的な力で、間接民主主義から直接民主主義へと誘う。もはや、過去のイデオロギーは終焉しつつある。過去の「栄光」にしがみつく党中央の陳腐な知性よりも、今日の自主的で創造的な青年の知性は、遥かに何倍も左翼的で革新的である。
もっと自由を、もっと民主主義を、さすれば、もっと平等への扉は開かれるだろう!