ROM3様へ
初めまして、山村耕作と申します。
いつも御投稿興味深く拝見しております。
ROM3様の御投稿を拝見して我が恩師原田綱先生がおっしゃっていた、現象学
的アプローチにおける,「本質直観は常に正しい」、と言う、御言葉を思い出し
てます。
私は、ライフワークとして、「戦間期における知識人の転向問題」を研究して
おり、政治学的アプローチに限定されますが、ファシズムの問題は、避けて通れ
ない課題であり、つたない思考ですが、多少のなりとも私の思考を述べたいと考
えます。
?ファシズムないし国家社会主義とは何か。
ディミトロフの言うように、金融資本の暴力的支配の極限という立場を私はとりま
せん。
私は、ファシズムの萌芽はフレキシブルな概念としての「塹壕」にあると考えま
す。
「塹壕」の中で人は、中間組織(家族、地域、宗教、職域団体、労働組合)から分
離され原子化され、死と暴力との国家権力と直に対峙し、パラダイム(価値基準)の
転換がなされたと私は考えます。
さてROM3様、人が「塹壕」という生と死の極限状況に存在するとき、人のはど
こに向かうか、私は、超人思想ないし、絶対的服従に向かうと考えます。
人は、弱く儚い、或者は千年王国という世界共産党に向かい、或も者は指導者原理
という総統ヘ向かう。
しかし、これだけでは、日本という我々の存在する社会において、日本型ファシズ
ムが存在した説明ができません。
これはウエーバーの定義する「エートス」としての日本民族の根本原理としての
「支配と服従の我らの内なる天皇制」の分析が必要だと私は考えます。
又時を経て私の思考を述べたいと思います。