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「科学的社会主義」討論欄

再コメントです(Forza Giapponさんの投稿に寄せて)

2004/12/21 N.K. 40代

 Forza Giapponさん、レスポンスをありがとうございます。
 私は、今、あまり書くエネルギーがないので十分なコメントができないかもしれま せんが、宜しくお願いします。

 まず、「「マル経・近経」なる二項対立構図は、あくまで便宜を考えたうえでの表 記です」との点については、よくわかります。便宜的に学派・シューレを表すものと して使われることに問題は感じません。また、学問的・市民的な議論が、そのような 便宜的使用の意味での「マル経」「近経」間(に限らず諸潮流間で)で進められるこ とも意義あることですね。しかし、「マル経」「近経」という日本的な用語が使われ てきた現実自体を問い直す必要も感じるのです。
 それは、戦後日本の社会科学(そしてそれと密接に関連したマルクス主義や諸社会 運動関連の領域)で「マルクス(主義)経済学」なる呼び方が一種の特権的な位置の 主張と結びついていたと思うからです。
 たとえば、「マル経」内に正統派・宇野派・市民社会派が鼎立する中で、日本共産 党中央のお墨付きは正統派(すべてイコール共産党ではありませんが)に与えられ、 アクチャルな意味をもつ学問的な論争はもちろん、大学教員ポストの人事から学内行 政にまで日本共産党中央による「指導」が加えられた現実があった(今もある?)わ けです。ですから、「近経」=ブルジョワ経済学はもちろん、「正しくないマル経」 には日本共産党の諸メディアを通して、「批判」という名の攻撃を加えてきた前科が あります(「お近くの図書館で気が向いたら昔の『前衛』や『経済』をひもといて確 認してみることをお奨めします」・・というのは冗談ですが)。日本共産党に限らず、 マルクス主義の<学>は、ブルジョワ科学より真理にアクセス可能なのだという特権 性を主張する内容なのだから、それを乱暴に推し進めれば、そういうことになってい くわけです。
 Forza Giapponさんが述べられているように、革新派・左翼の人々がもっと、幅広 く経済学(学界での主流・非主流問わず)に接し、狭い図式主義や教条から抜け出る ことについては、私はまったく賛成なのですが、「マル経とか近経という区分そのも のがもう無効ではないでしょうか」と私が述べたのは、さらにもう一歩進めて、上記 のような「マル経」(マルクス主義)の特権性幻想そのものの問題点を、自ら抉りだ していくことこそ必要なのではないか、という問題意識からです。ですから、その言 葉は、Forza Giapponに向けてのものではなく、おそらくもっと上の世代に多い、流 行思想としてのマルクス主義から抜け出せない人々に向けてのものと解していただい た方がよいかもしれませんね。

 尚、私は森嶋氏のものは、70年代に置塩経済学を経由してかじったのですが自分の 頭では十分にわかりませんでした。むしろ『なぜ日本は成功したか』など最近までの 一連のものは勉強になりました。あと『論座』という雑誌に連載したものを呼んで学 者人生?を知ることができました。

 ご質問の点は、私がこのサイトで投稿すると必ず自分の問題関心から民主主義の問 題に結びつけてしまうので、すみません。
 社会関係としての貨幣の廃止・市場の廃止による資源配分・経済活動(の方向での 指令・統制型の経済運営)が、経済権力を一元化あるいは硬直化させ、社会的全体主 義を支える基盤になると私は理解しています。国民経済を中央経済当局=<プロレタ リア独裁に基づく経済権力>が指令するいわば「一国一工場(企業)」化の問題点を 確認していくことが必要なのでないかということです。
 それは左翼全体主義=スターリン主義を生み出したマルクス主義の清算ということ の一つとして必要なことでしょう。同時にそのことは、「共同の生産手段で労働し自 分たちの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々 の結合体」(『資本論』)と言われたことが、どのように具体的に(たとえば市場メ カニズムとそれを支える諸制度=社会関係をどのようにすれば)実行可能なのか、あ るいは不可能なのかを探ることと表裏一体をなすのではないでしょうか。