山本 進さま。
はじめまして。Forza Giapponと申します、青年です。
12月12日付の山本さんの投稿に共感します。その中で問題提起なさった次のパラグ
ラフは、信教の自由を明文化しているはずの党の今後のありかたを熟考する上でも、
無視しえない要素を孕んでいると直観しました。と同時に、無神論のスタンスを公言
する仲間が比較的少なくない周りの環境に苦々しい思いを抱くぼくにとって、大いに
励ましになったというのが率直な気持ちです。信教の自由問題は憲法(基本的人権)
上、重大な論点なのですが、きょうはそれ以外の視点で述べてみます。
ぼく自身、護教論者としての意識はかねてから持っています。学生時代に般教 (一般教養課程)でとった(個人的関心ということもあるが。)宗教学概論の受講ノー トを引っ張り出してみたので、以下に少し引用してみます。すっかり埃をかぶってい ましたが、判読は可能でした。。ご参考になればいいのですが・・・。
《無神論者一派・青年ヘーゲル派》 巨星ヘーゲルが1831年に死去した。 いままでプロイセンに拠点を構えていたヘーゲル学派は、三派に分裂した。保守的な ヘーゲル右派、ヘーゲル前史に忠実な中央派、ヘーゲル哲学を神格化しない左派 (Junghegelianer)の三つである。
1935年、DFシュトラウスは、或る意味で問題作を刊行した。著書『イエスの生涯』 がそれである。イエスという人物が救世主イエスなのは原始キリスト教団によって作 られた神話である。神のインカーネーションはイエスという人物だけに生ずる瑣末な できごとではない。すべての人において生ずるはずだと布教した。
右派の大立者であったはずのBバウアーも、『共感福音書批判』などの宗教批判の 書によって俄かに左派急進化した。バウアーは「福音書は無意識どころか意識的な創 作物だ。その内容は人間の自己意識にすぎぬ」と一刀両断した。更に「そもそも、無 神論のアイディアはとっくの昔にヘーゲルのうちにあったのだ」と論じるまでになっ た。
一連の「宗教批判」の中で頭目的役割を担うようになったのはルードビッヒ・フォ イエルバッハである。彼は『キリスト教の本質』を書き上げた。神を恐れぬ問題作で ある。彼は同書において「神学の秘密は人間学である」との有名な主張を為した。
神的本質とは類的本質たる「人間」を指すのであるから、人間界と無縁の超越的存 在ではありえない。キリスト教は、人間自身の類的本質を「疎外」する際に成立する だけなのだから、この宗教的疎外そのものこそが批判されなければならない。
しかし、青年ヘーゲル派に与えた外部からの反宗教的影響も見逃しえない。Aルー ゲ、Mヘス、Aチェシコフスキーらの法・国家哲学、ドイツ歴史哲学、政治哲学にかか わる人たちの役割を軽視することはできない。
わけても、若かったマルクスとエンゲルスが思想を鍛え上げてゆくなかで、フォイ エルバッハやバウアー、シュティルナーらとの激しい論争から得たものは大きい。
一方、党は、リニューアルした綱領中で確かに信教の自由を認めてはいます。(※
本稿末尾を参照。)
しかし、2002年12月~2003年にかけての赤旗本紙をみるかぎり、自らを無信仰者の
スタンスだと表明した上での「宗教家・教団との対話」姿勢に終始しているような感
じが見受けられるようです。志位さんも宗教家との対話の冒頭では「私自身は無信仰
ではありますが・・・」とわざわざ前置きをしていたと記憶します。
国際平和や改憲阻止に向けて、いま本当に幅広い各界各層との緊密な連帯が不可欠
な時代です。日本山妙法寺などの僧侶らが国会前行動などで意欲的に動く姿を本紙で
目にしますが、本当に彼らには頭が下がります。
だとすれば党中央は、党内や党支持者の中から信仰を大切にする方々を探し、その
方々に「自分の言葉」で活き活きと「未来永劫、信仰の自由を尊重・保障し続ける党
です。これは、世界中の共産党の中でも日本共産党ただ一党だけに存在する性質のも
のなのです」などと語らせてみたらどうか、と思います。いや、語りの文言は彼らの
センスにすべてお任せしたほうがいいでしょう。
山本さんの指摘されたとおり、党員にもカトリック、プロテスタント各派、仏教各
派、神社神道の各信者はいます。ひょっとしたら、ムスリム(イスラーム教徒)やユ
ダヤ教徒だっていらっしゃるかもしれませんよね。それらの方々は日常生活のなかで
精神世界の大切さを実践することができる貴重な存在だと思います。ぼくのすぐ近所
にも敬虔なカトリック信者夫妻が住んでいますが、「改憲絶対反対」の立場で党活動
にも精力的に取り組んでいます。
党とは異なる精神世界や価値観に寛容であるためには、まずは党中央が率先し
て信教・信仰の自由問題に本腰をいれてほしいと強く願っています。またそうであっ
てこそ、諸国の民族問題や宗教問題の本質に鋭く切り込むことができるようになるの
ではないでしょうか。日本国内ですらも、少数民族は現存しています。
在日コリアン、華僑などの中でも日本国籍を取得しようと考える人が徐々
に増えつつあります。さまざまな宗教に寛容になることと異民族との共存社会をめざ
すこととは不可分な関係にあるはずです。それらを豊かに実践可能になったとき、党
は日本で唯一の「懐の深い政党」になりうると考えます。
参考(党綱領の抜粋)
第五章:社会主義・共産主義の社会をめざして.
第15項:・・・(前略)・・・社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の 成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展 させられる。「搾取の自由」は制限され、改革の前進のなかで廃止をめざす。・・・ (中略)・・・
さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。 「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特 定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道 とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。・・・(中略)・・・抑圧も戦争もない、 真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。・・・ (後略)・・・。