トロツキーは、元来、ボルシェビキとメンシェビキの中間に位置し、両派の統
一を志向していた。しかし、「民主集中制」という組織論をめぐっては激しくレーニ
ンと対立した。一般には、ロシアの十月革命では、ボルシェビキにトロツキーが合流したと語られている。しかし、グラムシは、レーニンとボルシェビキがトロツキーの「永続革命」に合流することによって、ロシアの十月革命が成功したと分析した。グラムシの分析こそが実際の歴史的な事実である。革命後、レーニンはトロツキー
に向って、「首相はトロツキーがなるべきである」と語った。こんな重大な問題で、
レーニンはトロツキーにお世辞や冗談を語る性格の人間ではない。この十月革命を実
際に指導したのはレーニンではなくトロツキーだったからこそ、出てきた言葉である。
トロツキーは「十月の教訓」で以下のように語る。
「言うまでもなく、われわれは、どの民族、どの階級、どの政党でも、主として自ら
の経験を通じて学ぶものだということを知っている。しかし、だからといってそれは
他の国・階級・政党の経験が取るに足りないものだということをいささかも意味する
ものではない。フランス大革命や1848年革命やパリ・コミューンの研究なしには、
われわれは、たとえ1905年の経験があったとしても、けっして10月革命を遂行
しえなかっただろう。それに、この民族的経験[1905年革命]にしても、われわ
れは、以前の諸革命の経験に立脚し、それらの歴史的路線を発展させることによって
成し遂げたのである。その後の反革命の全期間が、1905年の教訓と結果の研究に
費やされた。ところが、1917年の勝利した革命に関しては何らそのような仕事は
――その十分の1さえ――なされていない。」と。
ボルシェビキは、このトロツキーの「十月の教訓」を魔女がリ的な方法で連日批判
した。ロシアの十月革命は「全権力をソビエトへ」と言うスローガンの下で闘われた
のであって、「全権力をボルシェビキへ」ではなかった。しかし、ソビエトを通じて
権力を獲得したボルシェビキは、ソビエトの民主主義を破壊し、形骸化することによっ
て、ソビエトから権力を簒奪した。この権力を簒奪したボルシェビキは十月革命を指
導したトロツキーを追放したのは、極めて自然な姿でもあったと言えるだろう。そし
てこの革命を裏切ったボルシェビキの指導者自身が、スターリン等のほんの一部の人
間を除いて、全員処刑された。しかし、こうした事態に到った責任はトロツキー自身
にもあると言わねばならない。トロツキー自身がボルシェビキの神聖化に加担したか
らである。数多くのトロッツキストや第四インターは、ボルシェビキを神聖化したト
ロツキーの思想を受け継いだ。このことが、長い間に渡って、トロツキーの思想に誤
解を与える原因になった。
社会革命は、民衆の自由への叫びであり、己を拘束するあらゆる一切の束縛からの
解放を求める人間の叫びである。従って、特定の党・個人・思想を神聖化することに
よっては、革命は絶対に成功しない。確かに、ロシア革命と同じように、特定の党・
個人によって導かれることはあっても、神聖化を始めた途端に、その革命は破綻し始
める。レーニンやトロツキーは、党内で少数派に成ることは珍しくなかった。党内民
主主義と分派活動は旺盛であり、彼らは全く神聖化されていなかった。神聖化はレー
ニン死後、トロツキーの排除によって成功したのである。しかし、ボルシェビキの神
聖化は、既に、レーニンとトロツキーの時代から始まっている。ボルシェビキの神聖
化は、トロツキーの軍事指導によって、内戦に勝利した直後から急速に始まっている。
皮肉にも、この神聖化がトロツキー自身をボルシェビキから排除する原因になった。
この事実は、革命と神聖化は全く相容れないし、お互いに完全な対立項である、と言
う事を指し示している。
私は前衛的な存在とその必要性は否定しない。しかし、特定の党や党派がこれを独
占できると言う考えは、第三・第四インターの重大な欠陥になった。共産主義は、元
来、国境を越えた人類の自由・平等・民主主義を目指す思想なのであって、「マルク
ス主義者だけが共産主義者である」という考えは、そもそもマルクス・エンゲルスの
思想とは全く無縁である。労働者階級は、相互に利害が対立する多様な社会階層と職
種から成っている。従って、労働者階級の利益を代表する党や党派も多様であってし
かるべきである。共産主義者は多様な党や党派に散らばって、社会的な対立・葛藤を
克服するために、お互いに切磋琢磨し合えばいいのである。「民主集中制」という組
織原則で、この対立・葛藤を官僚的に克服しようとすれば、組織内の民主主義は死滅
し、代行主義が横行する。あらゆる社会問題は、無能な党官僚の野心で調和され、党
と国家の運命と未来は、党官僚の無責任な知性に任せておけば良いとなる。「民主集
中制」は労働者階級を解放する思想としてではなく、この階級から政治的活力と自主
的な知性を奪い、この階級を更に一段と奴隷化する思想として機能した。
ロシアの十月革命はソビエトの直接民主主義の坩堝の中から産まれたのであって、
こんな官僚主義とは、全く、無縁である。むしろ、こうした官僚主義との闘いによっ
て、つまり自由で民主的な討論によって、勝利したのである。ソビエトは平和と土地
を求める労働者・兵士・農民の自主的で民主的な機関であった。ソビエトのメンシェ
ビキ指導部は大衆に平和と土地を約束しながら、それを実行せずにブルジョワジーに
権力を委ね、戦争に協力し続けた。従って、メンシェビキが実際にこれを実行すれば、
ボルシェビキの出番はなかった。十月革命はボルシェビキの勝利ではなく、平和と土
地を求める労働者と兵士の勝利なのであって、それ以外のものではない。ボルシェビ
キはメンシェビキと違って、この約束を実行した。この過程は、ボルシェビキが大衆
の願いを代行した過程ではなく、大衆自身がボルシェビキという媒体を使って、己の
願いを権力に押し付けた過程である。単なる媒体に過ぎなかったボルシェビキは、大
衆から自立し、彼らの上に君臨し始めた。ボルシェビキは「一国社会主義」の名の下で、世界の革命運動を従属させ、裏切ることで、己の輝きを急速に低下させた。党は革命の司令部ではなく、革命の道具であり、媒体に過ぎない。スターリンにおいては、党を革命の司令部と勘違いすることによって、革命のために党があるのではなく、党のために革命がある事になった。党が全てであり、党さえあれば革命はいつでも計画的に起こせる訳である。大衆運動のために党があるのではなく、党のために大衆運動があるというセクト主義的体質は、今日の共産党にも、以前として引き継がれ続けている。
第二次大戦後、世界のブルジョワジーは十月革命を研究し、多くの教訓とした。そ
してスターリン主義者によって追放された数多くの共産主義者・トロッツキストを自
陣営に取り込んだ。左翼の陣営では、異端者に「トロッツキスト」の烙印を押して、
運動から排除した。20世紀においてはブルジョワジーこそが「十月の教訓」を学び、
左翼は「十月の教訓」を忘れることに努め続けたのである。ソ連の解体によって打撃
を受けたと考える社会主義者は、ロシア革命は早すぎた不幸だと主張し始める。ロシ
ア革命は、全世界に深刻な衝撃を与え、全世界の労働者階級を励まし、全世界に革命
の嵐を巻き起こした。この日本でも、大正デモクラシーや普選運動を励ました。その後の中国革命・民族解放闘争の進展を見ても、ロシア革命は単なる一国革命ではなく、全世界的な規模での革命を惹起しつづけてきた事を忘れてはならない。ソ連の解体によって、十月の教訓を忘れようとするのは、革命を裏切ったボルシェビキと同じ道を歩もうとする努力である。むしろ、ソ連の解体という歴史的な事実にこそ、十月の偉大な輝きがある。この教訓を忘れつづけてきたソ連の解体こそが、これを再び世界史上で輝かすのである。
ソ連は長い間、世界のブルジョワジーに対する側圧として機能してきたのは事実で
ある。しかし、この側圧としての歴史的な役割りは、ベトナム戦争で終わった。むし
ろ、その後は、アフガン戦争に見られるように、世界の社会主義運動にとっては、否
定的な役割りしか果たさなくなり始めた。ソ連の存在が、「一国社会主義」「民主集
中制」「官僚主義」を世界のなかで、「社会主義体制」の代名詞にしてきた。従って、
この解体によって、十月革命の教訓を忘れた社会主義ではなく、この教訓に基づいた
社会主義を再生する時代が切り開かれつつある。十月革命はスターリンに歪められ、辱められた「十月」ではなく、世界で初めて己の権力を手にした労働者階級の「教訓」として、再び輝き始めるだろう。今日の世界では、もはやロシア型の革命は考えられない。ブルジョワジーが、世界中の様々な革命から教訓を学んでいるだけでなく、世界の労働者階級の力自体が1917年とは比較にならないほど強力であって、先進国ではこのような革命自体を必要としていない。しかし、世界中の民衆の平和と民主主義への願いは普遍的な欲求である。この民衆の願いと希望を実現するために、社会主義者は何をなすべきかを考える上で、多くの貴重な教訓を与える続けている。そしてまた、如何にして、この革命は裏切られたのか、と言う視点で学ばねば、社会主義の再生はあり得ない。