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「科学的社会主義」討論欄

中国礼賛論や中国脅威論を越えて

2005/01/10 Forza Giappon

 東西冷戦終焉後の現代中国は、不破氏の言うように、はたして本当に「資本主義を離脱し、社会主義をめざす国」なのだろうか? 綱領改定後の不破氏の一連の言論に不信感をもった人は、やはり多いのではないだろうか?

 昨年12月の全国紙の片隅に載っていたコラムをたまたま読んだが、日頃のモヤモヤとしたプロブレマティーク(問題関心)にビビッときた。まず以下に引用する。

[窓:論説委員室から]《イランの将来像》
(イラン)革命から四半世紀を経たイランの首都テヘランを7年ぶりに訪れた。空港では以前のような徹底的な荷物検査はなく、係官の目つきも穏やかになったようだ。
 イスラム教の締めつけが緩んできているのは、女性の服装を見ればわかる。髪の毛を1本も出さなかった革命直後に比べて、スカーフの色はさまざま。若い女性はヘヤーカラーが当たり前で前半分くらいをむき出しに。黒ずくめのチャドル(マント)も、ひざ辺りまで短くなった。服装にうるさい宗教警察が街頭から消えたのだ。
 「スカーフをはずすことはできないけど、それ以外の自由は認められるようになった。もちろん見せしめ目的の摘発はあるが、自由を求める大きな流れに当局は逆らえない」革命を経験した、ある中年女性はそう言った。
 アッラーの神に祈る姿も町中でほとんど見かけなかった。湾岸アラブ諸国に比べなんといい加減、いやおおらかなことか。
 政権が宗教権威を守りながら、民衆の不満を徐々に吸収し、開放経済の道を歩む。宗教を共産党体制に置き換えれば「中国モデル」ではないか。
 「革命前の近代化は西欧モデルの模倣を意味していたが、いまはイラン独自の近代化を模索する時代だ。とはいえ、保守派が石油利権や金融を抑えている現状を変えないことには」。そう嘆くイランの元・政府高官によれば、「日本モデル」にイスラムを加えた将来像がいちばん望ましいのだ、とか。(出典:定森大治著『朝日新聞』2004年12月16日付.)以上。 

 唯一神教のイスラム国と東アジアの大国・中国とでは単純な比較は難しいし慎重でなければならないだろうことは当然だが、共産党系のメディアではまず見かけられない視点ではないかと感じる。

 今年(2005年)1月上旬、中国の総人口が遂に13億人台に達したというニュースは既にご存知だと思う。最近10年間で1億人の増、1980年代は7年間で1億人増という凄まじいペースであったとか。1人っ子政策の完全達成は難しいということかもしれない。ひょっとして男女産み分け技術が中国にも上陸したのだろうか?近年は新生児人口の男女間比率がいびつになってきたようだとも伝えられていた。

 いまの中国は、社会主義を国是としてはいるものの、「事実上の開発独裁型」国家に変質しているのではないだろうか?
 専ら経済成長をプライオリティーの最優先に掲げ、中央政府に対する批判を閉ざしている一党独裁、またはそれに近い強圧的・恐怖政治の体制で、先進諸国からの政府開発援助や資本導入によって工業化が進められた発展途上国にありがちな権威的政体の特徴。開発が福祉保健衛生向上や民主化に結びつきにくく、むしろ、所得格差の増大や政治抑圧への民衆反発から、政情不安や強権的鎮圧が生じやすい。今の中国は、皮相的には社会主義に見えたり、擬似資本主義「変種」に見たてる人があるかもしれない。だが、産業構造は主要国中依然として農業就業者率が高い。製造業にしても他国からの委託生産的な要素が強い。中国共産党の階級観はまだ農業者主体志向から脱却し切れていないようでもある。

 沿岸部経済特区に住む国民には、プロレタリアートでもなく資本家でもない、新中間層やいわゆる「プチブル層」が出現するようにもなってきた。その一方で、上海のような大都市に存在するストリート・チルドレンやホームレス同然の人たち。いまでも国民の私有財産を「公共の利益」名目で徴用されることがありうるという私的所有権制度の不備。不充分ながら、ともかくも自国オリジナル・ブランドを輸出するようになった韓国と比べても、まだまだ資本主義には程遠いのが実態ではないのか。

 一方で、昨今、アジアNIESや中国(沿海部)の経済動向を指して「東アジアのブラジル化」「中国の経済構造は、ある意味でラテンアメリカ・モデルに近付きつつある」との経済論文が出るようになった。主たる論客は、いまのところ開発経済学畑の方々のようだが。これはマル経派の方々には残念かもしれないが、弁証法唯物論では解読できないと思う。「経済発展段階説の限界がより鮮明になってきた」のかもしれない。

 上記に関連して気になるのだが、不破氏の曖昧(?)にして意味不明な概念説明は、ぼくら青年層のみならず、次世代の潜在的党員候補の子達にも今以上の混乱を来たすだけではないだろうか? 勉強仲間でもある近くの某青年専従員(女性)とこの問題をめぐり討論や学習したことがあるが、立て板に水。彼女(仮に「M子さん」とする。)曰く「中国の経済は順風満帆、外資を効果的に受け入れている。社会主義が達成される日は遠からず招来すると思う。それにあの文言は熟慮の末に打ち出された不破さんの自信作なのよ。あれに疑念を持つようじゃ、まだ“確信”には程遠いわね」と議論は平行線、まったくかみ合わないのだ (“確信”などという精神論にすりかえるのはアンフェアー。××学会の“折伏”でもあるまいし)。ともあれ、専従員、党員、党支持者の間でも現代中国の政体・体制をどのように視るか。すでにして混乱を来たしていることだけは確かだ。イデオロギーや特定の学派にとらわれないアクチュアルな中国経済観をお持ちの方がいれば、オピニオンを遠慮なく寄せていただきたい。

 昨今、日中関係は再びぎくしゃくしてきている。靖国公式参拝以外にも、サッカー・アジア杯決勝での中国人サポーター(応援団)の、常軌を逸した怒涛のようなブーイングと一部の暴徒化現象、警官隊との衝突。また、中国留学中の日本人留学生に対するむき出しの反日言動事件も一部地域であった。
 小中学校段階における「中国式・愛国心教育」のありさまをテレビで見たが、意気揚揚とした生徒らの表情は印象的だった。(愛国心教育自体、問題がないわけではないと思うが。)意外とまっとうな対日歴史認識を生徒らが持ち、堂々とした発言が相次ぐ教室風景に驚きもしたものだ。ただ、好戦的なキーワードの後に平然と「日本鬼子(リーペンクイツ)」を口にする男児にはちょっと心配になったが。やはり幼い小学生の精神にも第二次大戦で侵略を受けた傷跡は陰を落としているのか、と考えると心が痛んだ。

 日本と中国(いやそれ以上に韓国、北朝鮮だとぼくは思うが。)は一衣帯水の関係にあり、たとえ中国を嫌悪する人が増えているとしても中国から離れた場所へ日本を引越させることは不可能だ(それは当然)。ただでさえ世論調査の類いは気紛れ。時局が変わるたび、そのときどきの両国関係にナーヴァスに反応しがちで、長期的視点に立った「まともなオピニオン」をなかなか反映してはくれない。設問文の恣意性も指摘されているようである。

 かの国を「イデオロギーを異にする相容れない異質な国」だと決め付け、心情的仮想敵国視する人が増えれば、再び過去の悲劇(戦争)を自招する道を辿りかねない。戦争への下地づくりに無意識のうちに荷担させられたり、すすんでその役割を買って出るような狂気の時代を再来させてはならない。

 有事法制制定を完成させた日本は、現にアジア諸国から強い怒りを買っている。平和憲法改悪をももしも強行したとき、今度こそ日本は「アジアの孤児」になるに違いない。安易に「国益」や「グローバル協調体制が最重要」などと無規範・無原則に対米盲従し続ければ、日本は国民経済も社会福祉も教育も死滅してしまうだろう。
 いや、それは自殺行為と言ったほうが正しいかもしれない。本当に国民は目を覚まさなければならない、今なら遅くはない。石原都知事の「命がけで平和憲法を破ってやる」極めつけの暴言(2004年12月)、あの記事を目にしたとき、ぼくはガラにもなく泣いてしまった。まさに戦争前夜ではないかと。「都知事の暴言は憲法第99条(憲法尊重擁護義務)のみならず国家公務員法第38条(欠格条項)にも明白に違背する、重大きわまりない問題だ」と立ち上がる知識人も出始めているらしい。

 故・周恩来が日本側に「戦争被害の財政的賠償要求」を永久に放棄する大英断を為したのは有名だが、昨今の権力者らはこのことを一体どのように認識しているのだろうか? 日本のEEZ(排他的経済水域)を中国海軍潜水艦が侵犯したことをもって煽動的に騒ぎ立て、愛国心を鼓舞する一部論調はきわめてリスキーではないだろうか。周恩来の大英断を保守・革新の別を問わずすっかり忘却してしまっているのではないだろうか? 海外の心ある人々の間で次のフレーズが囁かれ冷笑されている(あるいはされていた)ことを、保守・革新の別を問わず、どれだけの人々が虚心坦懐に自省したことがあるだろうか?

「日本人の史的健忘症は、いつになったら治るのだろう」と。

 目まぐるしく錯綜するメディアの海におぼれないよう、冷静であたたかい対アジア観を養っていきたい、と自戒するきょうこのごろである。