私を含め私の上の世代が消滅しないと、新しい運動は生まれてこなかな、と考える毎日です。
私はその意見に全く反対です。私の所属する大衆組織では、98のパソコンを手に入れたので、これから、事務をデジタル化する事になりました。ところが、パソコンの出来る活動家がいない。
一番年長の私が先兵になって、活動せざるを得ない状態です。
私の1代目のパソコンにエクセルが入っていなかったので、私はエクセルが苦手です。それで友達に基礎になる書類を製作してもらってそれを活用するようにしています。製作した書類が2002で作ったものだったので、98では動かない。すると、若い人はすぐ業者を呼んできたらと言います。業者を呼んできても業者がパソコンすべてを解っているわけではない。解っていそうな人を捜さなければならない。そういうことは、若い人には苦手なのです。結局友達が、98で作り直してくれることになったので難題も解決しました。
人を如何に使うかと言う点では、若い人より年寄りの方が上手な面もあるのではと思います。
さて、本題の堀田前衛の「若き日の詩人たちの肖像」のをテキストとして「我らの内なる支配と服従の天皇制」の私のむ思考述べたいと考えます。
内なる天皇制をお考えになることが、山村様の人生テーマーですね。
先日図書館で堀田善衛氏の本を借りてきて、読みました。「未来への何とか」という題名でしたが、ハッキリは忘れました。
時代と人間の関わりについて考える人のようなので好感を持ちました。
私なら、どこか田舎でじっとして居たのに、この人たちは、死を覚悟して活動していたのか、何時も疑問に考えて居ました。
あの時代では、じっとしていることは許されませんでした。
監獄へ行くか、兵隊に行くかの二者択一です。
兵隊に行って人を殺すより運動によって、自分が殺される方がましでしょう。私なら、殺すより、殺される方を選択します。
又時を経て私なりの考えを申し上げたいと思います。
楽しみにお待ちしています。