哲学は、科学的社会主義の理論的支柱としては、実は必要のなかった学問であったのである。これを科学的社会主義の一つの源泉だとか、ひとつの構成部分と見る考え方は、私はむしろ危険だと思っているくらいである。
哲学とは、簡単にいえば「物の見方、考え方」を抽象的に最初からあるものとして、教える学問のようだが、それを教えるというのは思想そのものを統制するような学問であるような気がしてならない。
例えば、天動説とか地動説とかを教えたいのであれば(勤労者通信大学、2005年)、それだけを自然科学の天文学として教えればよろしい。しかし、それは相当困難なことだと私には思われる。それは地動説がなせ正しいのか、それを確かめる方法を教えないとその科学的説明にはなっていないと私は思うからだ。
憲法では、思想の自由とともに、学問の自由も保障されており、どのようにものを見て、どう考えるかはまったくのその人の自由なのです。それなのに哲学を一番先に教えたい「科学的社会主義の哲学者」は多いのだ。それならばその哲学は観念論そのものだと言わざるを得ないと私は思っている。それは抽象的に考え方を先に教えようとするものに他ならないからである。私にはとても無味乾燥な学問であるという気がしてなりません。
しかしそうはいっても、私は、哲学を学問としてみないと言っているのではない。それは、例えば理論物理学が学問であったとしても、それが科学的社会主義の理論的支柱とならないことと同様だ。理論物理学を学びたい人だけが理論物理学を学べばいいように、哲学も学びたい人だけが学べばいいと思う。
日本国憲法が保障するように、思想の自由、学問の自由を保障することが重要なのです。党は科学的社会主義の立場にあるが、これは、党員の思想の自由や学問の自由を決して否定するものではない。
ところで党の学習の原則は独習である。集団学習はいかに有意義であっても独習を援助するものでしかない。そして独習はその個人がどんな方法で学習してもかまわない。しかも、この原則は、民主的教育がされなければならない学校教育でも必要で、例えば小学1年生でも、自分ひとりでいろいろ見たり聞いたりして「あーでもない。こーでもない。」と考えることは人権として保障されなければならない。自分で考えているのである。これがとても重要なのである。これが学問の自由の基礎をなすと私には思われる。
ところが、もしこれに科学的社会主義の哲学が、一つの源泉だとか、一つの構成部分として、いきなり入ってくると、これはひとつの学問的強制のような感じがして、私にはしてしょうがない。
マルクス主義を3つの源泉と3つの構成部分にわけたのは、実はレーニンであるが、これは明らかにマルクス主義を神格化しすぎたのである。これがマルクス・レーニン主義を国定の哲学とする、誤った党の独裁化に繋がったのである。レーニンの欠陥のひとつはここにもあったと私は思うのである。これで、とくにスターリン時代から、あらゆる人の表現の自由を萎縮させてしまったのである。事実上、ソビエト共産主義以外の思想の自由も学問の自由も認めなくなったと思うのである。またレーニンも、宗教をアヘンするものとして、著しく迫害視してきたことは有名である。哲学に名を借りて、精神的自由権をほとんど否定していると言っても過言ではない。
もし党員にだけ科学的社会主義の一定の哲学があるというのは、それを教える側が、教えられる側に対して何か思想的優越感があるかのような愚かな状態を示す場合が多いのではないかと私は思う。例えば広島では、科学的社会主義の哲学を非常に重視した広島県労働者学習協議会会長(2005年当時)がいたが、私は恐ろしいほどの経済的搾取を彼から受けた。私は、この搾取に非常に頭にきて、何箇所かにメールで告発した。ところが広島県委員長は、私の行為は「党内の問題は党内で処理する」という規約に反するとして私の表現行為の禁止を求めたのである。それならば「党内で処理をしてくれ。」と私は、何度も強く求めたが、未だに何の党内処理もない。これは科学的社会主義の哲学というものが、著しく人間をのぼせ上がらせてしまう好個な事例ひとつであるといっても過言ではないだろう。またここにはひとつも科学性がないといってよいだろう。
私は、マルクスが彼が若いときはともかく、資本論では、哲学を捨てたと思うのです。
私は、資本論第1巻をかなり学んだ方だと思いますが、哲学を感じることはできませんでした。むしろ人間の感情というようなものも豊に考えることができたと思います。科学的社会主義の哲学による唯物論とか観念論に関係なくです。
私は、まずとにかく自分の頭で考えてみた。そして自分の頭が(躁うつ病で)いかれているから、たえずマルクスの思想を自分の頭で考え直してみたのである。場合によれば反対のことを考えたりした。抽象力(資本論序文)でわからなければ自分で実際にやってみようとしたし、できることならやってみた。これが資本論を学びながらの私の学習方法として確立してきたものです。
広島県労働者学習協議会会長のようにできるなら徹底的に搾取しようなどとは決して考えないし、そのような行動もしません。
自分で少しづつ考えながら、実際に検証もしてみる。ここからマルクスの理論に感心もしたし感動もあったのです。だから私には最初からただ抽象的に統一された考え方、哲学を学ぶ必要もなかったし、むしろそれは不要だったのです。
私には哲学は錬金術だと思えてならない。つまりそれを考える過程においては唯物論とか弁証法などの一定の考え方(成果)を編み出したかもしれない。しかし、それを超えて、最高の考え方、哲学というものは実は存在しないと思うのである。
マルクス主義が、3つの源泉と3つの構成部分により成り立つというのは誤りである。
そうではなくて、まずは経済学と自然科学が下部構造なのである。そして、その上部構造として、法学とか政治学とか文学とかがあるのであって、実は哲学もそのひとつすぎない。だから哲学を学びたいと思う人だけが学習をすればよろしい。
ところが、未だに哲学を科学的社会主義の一つの構成部分として、必修の学問であるかのように見る人は実に多いのであって、これは、私には、ひとつの宗派をとくのと同じように思われる。しかし、私がいいたいのは、別に宗教をやってもいいように(党員にも信教の自由はある)、別に哲学をやってもいいのだが、それが科学的社会主義の理論的支柱ではないことははっきりさせなければならないということだ。
私たちは、党の革命路線の基本である綱領と、その組織原則である規約をほんの少しでも承認すれば、基本的に誰でも入党できるのである。宗教的信念を持つ人でも入党できるのである。しかし、そこで統一的な哲学で、何か特別な考え方まで半ば強制的に押しつけようなどと思うのは、それはむしろ独裁の可能性があるとさえいってもよいと思うほどである。
私は、精神病院で資本論を学習した。これは私の人生の自慢話のひとつにしてよいだろうと思っている。その思想(意見)は知りたいと思うだろう。しかし精神病院での発想の仕方まで、あたかも抽象的な考え方「統一的な哲学」ように、知り参考になると思うだろうか。精神病院で考えているんだよ。それを体験してみるようにして、およそそのような考え方の方法(哲学)まで学ぼうとは思わないであろう。
実は、これはマルクスの場合でも同様なのではないかというのが私の意見なのです。つまりマルクスの真似をして、マルクス主義を学んではいけないのである。