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「科学的社会主義」討論欄

現実に迫るうえで科学と哲学との距離をどう見るか

2005/05/07 千坂史郎 50代

 つい最近の人文学徒さんや山本進さんたちのご投稿を読み、刺激されて私見を 述べたく思いました。

 冷戦はソ連邦共産党の終焉と国際共産主義運動の解体で終えました。しかし、世界 は平和になったでしょうか。アフガン、イラク。相次ぐアメリカ中心の軍事戦略は、 冷戦下に勝るとも劣らない世界政治情勢をもたらしています。
 一方、国内では、小泉首相や石原都知事のような政治家が支持を得てトップの座に あります。それは彼らに大衆迎合政治家としての魅力や策謀があるとともに、国民世 論のかなり多くの一部世論変質を見過ごすべきではないでしょう。
 国内は、中間層の二極分解により、小泉=石原型の新保守主義改革によって利益や 政治的代弁を被っている富裕層も出現しています。

 そんな日本で民衆サイドで、憲法と民主主義を擁護し戦後日本の正統的平和主義を 継承するためには、なにが大切でしょうか。

 私は、現実と格闘する自らの主体的思考と自立的思想の形成を大切と考えます。 「科学的社会主義」やマルクス主義においても、自らの思考を通して批判的再建をめ ざすべきと考えます。
 科学とは、土台なのか上部構造なのか、イデオロギーなのか、生産力なのか。自ら の思考をめざすべきです。科学は技術とどこが違うのか。科学と哲学とはどういう関 係があるのか、ないのか。
 私は、戸坂潤が言うような意味で「ニッポンイデオロギー」に対峙して「科学的精 神」を大事に思います。しかしながら、「科学的社会主義」とは、先験的にあるもの ではなく、対象とする現実とどう向かうのか、その方法と思想とによって、「科学的」 かどうかが価値dふけられます。その社会主義が「科学的」ならば、それは論理的に 「民主的」となるでしょう。なぜなら、科学的とは、誰がたどっても多くの民衆が追 体験可能な、例証可能な、特権的でなく専制的ではないものとならざるを得ないもの だからです。
 哲学とは、科学の分析的特徴に対して、総合性を帯びる学問です。対象を分析しつ くして、はてどうしたものやら、と迷ったときに、君たちはどう生きるか、を明確に 指し示す総体としての認識をもたらすだけの見識となりうるものでしょう。

 と、まあ私はそのように考えております。なお、私の生涯の学問的恩師は、実践的 唯物論を研究されていましたが、「観念論」者ヘーゲルをその素材の全面に渡って研 究しつづけて、「ヘーゲルの唯物論的改作」を主張しました。さらに「科学的社会主 義」を肯定しつつも、イギリス経験論哲学の寛容の思想から現代学び取るべきである ことを死の数年前から、私信で言明されておられました。
 さらに、「実践的唯物論」を自らの哲学でありながらも、むしろ「人類生存の哲学」 の構築を闡明にしたいと主張していました。まさに「科学的社会主義」や「実践的唯 物論」が「人類生存」のためにあたうるかぎり貢献しえなければ、それらは自らの名 前さえ裏切ると認識されていたからです。
 芝田進午、一切の学問的研究の成果をまとめあげる人生の晩年を、学問のためとい うよりは、国立感染症研究所の住宅密集地での実験差し止め裁判に賭け、ガンでご逝 去された現代の田中正造のごとく民衆のために倒れた実践的知識人でした。