2005/4/24の山本進さん、ならびに、2003/11/15の人文学徒さんらの一連の論文は、高度な政治哲学的な視点から、いわば官僚科学的社会主義という名の“鉄のカーテン”を打破しようとの静かな、しかし強靭な意志が感じられる。
ただ、とくに人文学徒さんの論文は難解なため、きょうは、ひとまず一般的でアクチュアルなレベルからささやかな一例を述べようと思う。
或る原子力工学者が、脱原発市民運動団体から
どこそこの原発で大規模な放射能漏れ事故が起きる可能性はどれぐらいあるのか?
と問われたとする。このとき、
この原発は、現代における最新の科学技術の粋(すい)を結実させた、高度な発電所です。設計段階から、海外の主たる原発事故の教訓をも踏まえたうえで建設されたものです。したがって、大規模な放射能漏れ事故は考えられませんし、《絶対に》安全です。いままでいかなる事故も1件も起きておりません。
と答えたなら、それはすなわち「イデオロギー」と言える。
逆に、
いくら最新の科学技術を駆使した上で建設されたと言っても、放射能漏れのリスクは潜在的にあり得る。たとえば原発労働者のケアレス・ミスに起因するヒューマン・エラーなどで事故につながる確率は○○%で、またたとえば原発立地点が震度7の大震災に見舞われたとしたら、臨界が○○%の確率で起こりうる。周囲の風向が北西の風、風力が毎秒○○メートルだとしたら、これだけの範囲内で○○キュリーの強さ(?)で汚染される可能性がある。ヨウ素剤の効力は、汚染度○○キュリーまでを上限として、それ以上の汚染に対しては効果が期待できない。
などと答えれば、それは「科学的」だと言えると思う。
これなど、ほんの一例なのだが、学生時代 教養課程のなかの「入門・科学」におけるグループ討議でやった中で、このようなテーマに近い設例があった記憶がある。いわば思考訓練と言い得るかもしれないが、今にして思い起こせば、経済学系の学部にしては科学的態度の涵養を狙った(?)カリキュラムだったのかもしれない。
そういえば、或る神父さんが述べておられたのを思い出した。
神ならぬ者、《絶対》なる言説を口にしてはならない、被造物に《絶対》というものはあり得ない。
(なお、神父さんの言われた「被造物」とは、人間の意味です。)
現代でいうところの「科学」のカテゴリーには属さない、最高の思弁科学とも称される神学だが、「科学」とイデオロギーに即して考える場合、あらためて示唆されるような気がするのは、ぼくだけだろうか? 無神論の方々には関心対象外にすぎないのだろうか? 更に、現代イスラーム圏の科学観とも相通ずるものも、もしかしたらあるのかもしれない。
あまり整理しないまま書き進んできたが、「科学(純粋自然科学)」と「イデオロギー」が真に分離されているのか、というプロブレマティーク(問題関心)の持ち方というものは、第一線の科学者やエンジニア等、日々研究や新技術開発等に携わる方々にとっては、避けて通って良いものなのだろうか? そうは思えない。
自然科学とはいわば対極に居るはずの市井の聖職者の語られた前出の言説は、やはり「科学的」とか、「科学」と「イデオロギー」を峻別して再考する際の箴言に聞こえるのだ、青年のぼくには。
神父さんは科学的な思考ができるお方だと思う。いや、こんな物言いは神父さんに失礼だ。世界四大宗教のうち他の宗派であっても、実生活の次元では同様なのかもしれないけれども。
「宗教と科学の対立と邂逅」を歴史的に経験してこなかったこの日本にあって、ともすれば見落とされがちな根源的なテーマに気付かせてくれそうな意味で、神父さんの言は未来永劫不変の摂理を表しているのかもしれない。