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「科学的社会主義」討論欄

5/12 再びレーニン批判について

2005/06/01 ロム3

 山本さんのお考えに大いに賛成ではありますが、

>レーニンがした革命は、毛沢東と同じで暴力革命です。
これは歴然たる事実です。

 暴力革命ではありますが、毛沢東は、第二次世界大戦の延長線上での革命なので、ロシア革命とは異なっていると思います。
 ロシアは、植民地ではなかったけれど、中国は、植民地でした。
 植民地からの民族解放という命題が毛沢東にはあったと思います。

 では、同じようにベトナムも暴力革命ではありますが、賞賛する人はあっても、非難する人は少ないですね。ベトナムも植民地からの解放だったからだと思います。

>マルクス・レーニン主義を国定の哲学としたのも事実上レーニンだと思います。
これは創価学会の池田大作が政権をとったようなものだと私は思います。ロシア国民が主人公ではなく、ソ連共産党を一党独裁とし、共産党が主人公のようになってしまったからだと私には思われるからです。

 全く、同感です。

>一党独裁、これが暴力革命とともに、歴史上の最大の誤りであるにもかかわらず、日本共産党もこの点についての明確な批判をしていないのではないかと思います。よく共産党は一党独裁だからな、とよく言われることがありますが、この点について明確な説明を私はできないからです。分派だったとはいえ、日本共産党も暴力革命や独裁革命を表明したことがあったからです。

 日本共産党は、口では、複数政党を容認するといいますが、その行動は、独裁的です。当選する見込みの無い選挙区に立候補者を立てていたのが、その証左だと思います。妥協を許さぬ政党です。
 他党と妥協はしないけれど、支持者ならびに党員は、指導部に常に妥協させられてきました。

>レーニンが創価学会の池田大作みたいだというのは、あのすさまじい個人崇拝を見ればあきらかだと思うのです。それは、いやになってくるほどあるレーニンの銅像を一見しただけで充分だと思っています。もし宮本さんや不破さんが死ねば、各都道府県毎に彼の銅像を立てなければならないのでしょうか。

 日本共産党が政権をとればそういうことになるでしょうね。幸いにこの日本では体質改善をしないと政権はとれないことは、先の選挙で明白です。だから、日本共産党は、綱領を変えてマルクス・レーニン主義を捨てたのだと思います。はっきり捨てたといえないので、科学的社会主義という言葉で現状はお茶を濁しています。

>しかもレーニンの場合はとても非科学的な死体処理をしています。まるで生きているような死体処理です。

 非科学的というよりは、高度な科学的処理のように私には思えますが。

>レーニンの独裁主義。これがスターリンを産んだのは確かなのであって、私はスターリンは突然変異ではなく、生まれるべくして生まれたと思っています。行き着く先は、囚人労働のような徹底した搾取です。

 まったく、するどく的を射た表現だと思います。

>私は、科学的社会主義について、いろいろな学習をし、またしようと思っていますが、レーニンの本は一冊も読まないと決めています。暴力革命もしたくないし、また個人崇拝もしたくないからです。だから不破があんなに長々と『レーニンと資本論』という本を出版したのは愚の骨頂だと思えてしょうがないのです。また彼の『科学の目』という著作も私には『馬鹿の目』のように見える。学習の必要はないと私は思えるのです。

 まったく、同感です。

>この点に関して、読んでもいないのに批判などするなという意見があります。そう人は僕には、例えば自民党の小泉政治を批判する場合に小泉の発言をすべて聞かないと批判をしてはならないという発言とよく似ていると思います。これは、例えばマルサスの『人口論』を批判するのと同様のことだと思ってください。『人口論』を読んでいないからといって、それを批判してはいけないと言うことにはならないでしょう。だから『科学の目』を、私は読まないで、批判してまったくかまわないと思っています。

 ここまでは、同感です。

>(この「科学」というのはほとんど哲学と同義語であると私には思われます。また、哲学不要論をとる私の立場からは、むしろ読まないで批判することが重要なのです。)

 哲学を悪い物ときめつけられる山本さんに私は反対です。哲学こそは、人間にとって一番大切なものだと私は思います。
 すべての考え方の基礎が哲学だと私は思っています。
 日本共産党は、哲学を捨て、レーニンや、不破を崇拝したから、今のように凋落したのだと思います。

>レーニンの科学的社会主義がなぜおかしいのか。それは、党内の表現の自由に関する党規約にはっきりと現れていると私には思えるからです。いたるところで下部党員の表現の自由を規制しています。2000年の党規約の改正は、まさしく不破が中心となって、「改正」したことは間違いないからです。これは主にレーニンの哲学による表現の自由の規制なのだと私ははっきり思います。一党独裁だからです。すなわち今のままでは、本音では党は表現の自由という人権の保障を実はしたくないのです。

 そうかもしれませんが、80年の歴史のあやまりを正すには、一挙に変えると混乱が起きる。もっともレーニン崇拝者だった不破がスケープゴートとなって、矢面に立たされているように私には見えます。
 党員一人一人の頭の中から、レーニン主義と、不破主義をとりさることが大切だと思います。自分の頭で考える事の出来る党員を養成することが大切だと思います。それには、哲学が必要だと思います。
 因みに私の信奉する哲学は、弁証法的唯物論です。
 党員よ。弁証法的唯物論に帰れ。というのが私の主張です。

>最後に、学習に関して、私は党中央に、独習指定文献の廃止を求めたいと思います。

 今でもまだそういう制度が残っているのですか?