レーニン批判がいろいろ語られています。そこで、まず私が驚くのは、創価学会の池田氏のようなもの、創価学会が権力奪取をしたようなものが、ボルシェビキだと、まったく根拠のない作り話をして悦にはいっておられる、「知識人」階層の方である。
また、スターリンを準備したのが、レーニンだという説も、根拠が薄弱であると私は思います。
レーニンの後継者争いで、トロツキーは破れ、スターリンの圧制となっていったわけで、レーニンの最後の闘争は、粗暴なスターリンを排除することだったといわれている。
事実からして、スターリンを準備したのは、レーニンだとする説は、あまり有力ではないといえる。
実際、後継者はトロツキーであったのだから。
ところが、日本共産党も、スターリン体制化で変質した、ソ連共産党の影響下に規定され、長くトロツキーを排斥し、スターリンを美化するか、あるいはスターリンの理論に規定されてきたというのが、事実ではないか?単なる、プロパガンダではなく、本当に、マルクス主義やレーニン主義をつきつめると、スターリンとの決別は理解できうるはなしであろう。なぜならば、スターリンによって進められたソ連は解体してしまったという唯物論的な歴史にたっても、それは明らかであろう。
むしろ、レーニンの死後、レーニンの権威を高めて偶像化したのが、スターリンであり、レーニンの後継者だとして自分を偶像化したのが、スターリンの姿勢であったのだ。レーニンは実際に、偶像化することをいたく嫌い、レーニンの誕生日を祝う催しも、はずかしくなってしまうというお茶目なところがあったというエピソードがあるくらいである。
ましてや、レーニンは、自己保身ではなく、革命を実践する立場として生涯をかけたようであり、でなければ、メンシェビキなどの祖国愛国主義に転落していただろうし、ロシア帝政の帝国主義戦争に対抗することはできなかっただろう。レーニンは、ロシアではドイツのスパイとされ政治弾圧され、亡命生活を余儀なくされた。
それは、帝国主義戦争に対峙して、革命的祖国敗北主義を掲げたゆえである。レーニン「第二インターナショナル」と「帝国主義論」の、突き出した、祖国防衛主義=カウツキー主義の批判は、じゅうぶん、レーニンが原則的、マルクス主義者であったことを明確化させているだろう。レーニン以外の社会主義者は、帝国主義戦争に参加し、祖国防衛主義に依拠し、第二インターの議決を歪曲していった。これは、ドイツ社民などの知識層に代表されるように、対権力と自己保身のあらわれでしかなかった。レーニンは、こうした自己保身ではなく、見事、戦争を革命に転化したのである。
しかし、その権威を自らのものとして押し出して、ドイツ革命を頓挫させ、ナチスとの闘いを回避したのがスターリンであった。
スターリンは、ドイツ社民主要打撃論により、ナチスとの闘いをさけ、ナチス政権奪取とドイツ社民・共産党の弾圧をも招き、スペインでは人民戦線の敗北さえ招いたのである。ファシストをながらえさせたのは、スターリンのじぐざく路線と、レーニンの革命論の放棄そのものに他ならなかった。そのため、ナチスドイツとはじめは条約さえ締結し、ドイツ帝国主義の台頭をもたらすものとなった。第二次大戦を再び、帝国主義戦争として生み出してしまったのは、スターリンのソ連一国建設路線そのものに規定されるといえよう。
はじめっから、スターリン体制は、あやうい体制であったのである。
ソ連が解体された原因として、いろいろな意見がだされているが、これをレーニンに帰着するのは早計だと私は考えている。むしろ、スターリンのじぐざく路線と、ソ連建設そのものが破綻的だったというほうが、マルクス主義をきわめていけば、理解できうるはなしであろう。