さて、5月13日にあそこまで書いたのなら、その続きを書きたいと思い 至りました。
今度はまず、現在の日本共産党をこの右左観で見たらどういうことになる
かという側面への言及です。まず、新しい世界状況を取り込み、消化して、その
世界把握概念を発展させようとしてはいないという意味では、古い概念を墨守す
る人々が言うほどに「右傾化」しているとは言えないということです。僕は全く
そう考えています。理論が古いままで、それでやっていけるという自信もないま
まに見かけだけ変えてきたし、この見かけはこれからしばらくはもっともっと変
わっていくだろうというような、実にけったいな政党に見えます。理論は左の教
条主義、表面はこれを隠してどんどんポピュリズムの「右傾化」を強めるとい
う、そういうみなさん既にご存じの実態を概観した上で、そういうことになって
しまうさらにその「理論」というものを、もう一度ふりかえってみたいと思うの
です。
理論が古いままとは、以下の現象を見るだけでも明らかでしょう。まず、民主
集中制です。比較的古く資本主義に入った国の共産党でこれをまだ墨守している
のは、他にはポルトガル共産党ただ一つと聞きました。なお、北朝鮮と中国がこ
れをまだキープしているのはまちがいのないところでしょう。(もし間違ってい
たら指摘してください。またこれらの点で正確なことを教えてくださる方がい
らっしゃったら、よろしくお願いいたします。) 次いで、土台主義的社会主義
観です。労働者階級の権力、生産手段の社会化、計画経済という三条件を社会主
義概念の基本とするという旧概念からほとんど踏み出してはいず、他は「民主主
義的な計画経済」という何の保証もないスローガンを加えた程度のはずです。こ
の社会主義三条件を持っていたはずの東欧圏政府が全て瓦解したのに、その原因
すら分析できないでいるということでしょう。(もっとも日本共産党は東欧圏の
ことを80年代中頃までは「生成期の社会主義国」と言っていたのに現在は「社
会主義とは縁もゆかりもないもの」と言っているのですから、まともな分析など
するつもりもないのでしょう) 民主集中制が「労働者階級の権力」を腐敗させ
て官僚主義を生むから、これの廃止を社会主義の定義の中に入れなければ東欧の
ように計画経済が破綻を来すなどということは、当分認めそうもありません。そ
して万事がこういった調子で、「土台の視点からだけ文化を見るやり方」の無反
省も理論上はそのままのはずです。文化などへの政治主義的ひきまわしが起らざ
るを得ないような状況は、相変わらず根強く残っているわけです。
他方、ポピュリズムの方はどうでしょうか。古くは「執権」の問題、自衛隊の
こと、天皇制のこと、「前衛党」の問題、全くの議会主義政党になってきたと
か、理論的にはいまでも革命の基盤と言っているはずの労働組合に対しての「指
導」をほとんど放棄しているとか、他にもまだまだいっぱいあるはずです。「古
い理論と見かけの大衆迎合」、「典型的な、理論的教条主義で時代遅れになった
政党」と僕は見ています。さて、どうしてこんなことになってしまったのでしょ
うか。これを根本的、理論的に振り返ることなくしては、党の運動論の根本であ
る二本足も進むはずがないと考えています。その意味では一般投稿欄4月7日に
ムーミンパパさんが「党は必ず二本足に戻る」と言われているそのことも、遙か
先の話と言うしかないのではないでしょうか。
問題はやはり「科学的社会主義」の「科学」という視点、「科学の目」な
どという「そういう方法論」にあるのだと僕は考えてきました。僕のさざ波への
初投稿、組織論・運動論、03年11月15日の「『科学』の批判」を、5月8日には
ロム3さん、14日にはフォルツァジャポンさんに「超難解」と言われましたの
で、以下ごてごて言わずにあそこで書いたことなどをちょっと乱暴な箇条書きに
してみます。
1 科学とは己を無にして対象を見つめるというのが基本のやり方ですが、ま
た、党が好きな「知性」という概念も「理性」などと違って「主体を無にしても
のを見つめる」ということを前提とする概念なのですが、こういう「方法」に
「土台が人間の意識を規定する」というマルクス主義の公式があいまって、党の
理論には「主体」という側面、「人間実践」というものが元々根本的に欠けてい
るということです。ちなみに党が「科学的社会主義」のバイブルと見る「空想か
ら科学への社会主義の発展」についても、根本的な誤読があると見てきました。
この著作のテーマである「歴史を勝手に切り盛りするような『空想』、『哲学』
はだめだ」という命題をば、「主体を無にして対象(そのほとんどは実質的には
土台だけです)を受け取れ」といように理解しているのではないでしょうか。す
ると対象の世界の主体たちも見えなくなってくるというようなものです。人間と
いうものの実際の生き方、己に真に大事なことは科学的であろうとなかろうと日
々決断して生きていくしかないというそういった人間の本当の実践的生活という
ものを見ることができていないのだと思います。
2 1に呼応した人間論はこういったものでしょう。土台、階級闘争などごく限
られたことを行う人間たちと、その学習、宣伝を受け取るべきとされた認識主体
としての人間たちが事実上その内容のほとんど全てになっているということで
す。上部構造とくに文化の中に、土台、階級闘争に結びつきやすい面しか見ない
ことによって、現実の人々を幻想的に見るしかないということでもありましょう
か。階級闘争下の上部構造はねじれていると見るから、そのほとんどをまともに
取り上げないという体質を持っていると言ったら良いでしょう。目前の人間たち
をもともと一面的にしか捉えられない理論しか持てていないということなのだと
思うのです。
3 そして以上のような体系的理論から以下のような運動論が出てきます。
「資本主義的土台の酷さを学習、宣伝する」、そうして「拡大をすれば選挙に
勝って、要求が実現していく」と。極めて抽象的で、官僚主義臭が強く、無味乾
燥な数学の公式の抜け殻ような方針と言えないでしょうか。資本主義的生産の無
政府性と、人間の富の異常な偏在、富と人間の莫大な浪費は、現世界にある諸々
の社会悪の根元として早くなくさねばなりませんが、それは人々が認識すれば変
えられるとか、国家が変われば変えられるとかいうような、そんな生やさしい物
でないはずです。この解決方向は、試行錯誤を重ねながらの適切な社会的実践の
積み重ねの先に見えてくる物と言うしかないのではないでしょうか。単に党が大
きくなればこれができるというものでもないでしょう。適切な社会的実践をその
都度提起しつつそれらをしっかりと総括するという、指導部のそれこそそういう
科学性が試されていくのですが、現在の指導部はそういう「実のある」戦線から
はエスケイプしているようにしか見えません。
4 学習、宣伝に関して次のようなこともあります。誰でも土台、階級闘争とい
うものを「白紙の目」で見つめられるはずで、そうすれば誰でも変革意識を、労
働者であれば特にそれを持つことができるはずだと見ているということです。
他方マルクスやレーニンは「相当の社会的実践を経なければ変革意識は生まれ
ない」と考えていたはずなのです。今日の工業国のようなところではマスコミ、
徹底した商業主義文化の発展、まだまだ形式的な面があるにせよ民主主義の発展
などによってマルクスやレーニンの時代よりもはるかに変革意識は生まれにくく
なっているのではないでしょうか。帝国主義誕生のちょっと後にレーニンがこう
言いました。帝国主義的利益のおこぼれを与えることによって一部の労働者を飼
い慣らすことが可能になって、それが社会変革を妨げていると。そして現在は
レーニンの時代よりもはるかにこの困難は増しているのだと思うのです。世界的
な独占資本は、レーニンの時代よりもずっと多くの「労働者」を飼い慣らすこと
ができています。しかも、そういう企業に属しているというそのブランド力だけ
で労働者なのにエリートと目されるという、そんな妙な時代がやってきました。
こんな時代ならなおさら、無数の思考錯誤を重ねながら考え抜いた社会的実践を
国民に提起し続けることを通してしか先述の社会悪の根元をなくそうとする変革
意識も全く生まれはしないのだと、僕は考えています。変革というものをこうい
う意識的実践の末に起こるものなのだと見るならば、フリーターの方々が増える
というだけでは、悲しいことだけれど変革の入り口にも達するわけではないとい
うのは明白なことではないでしょうか。いつも言っているように、窮乏革命論的
な理論には全く信を置くことはできないということです。
なお、ここから先の僕なりの「方向」については、昨年10月25日付け 党員投稿欄「エッセー、日本共産党の全体像をこんなふうに変えてみたい」をご 覧下さい。ここまで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。