今回の文章はかなり読みやすくなりました。
同意したい面がおおいのですが、民主集中性に関しては、私とは全く反対の意見な
ので保留しておきます。民主集中制がなくなったら、どうやって組織を維持出来るの
か私には想像がつきません。その辺の説明がないと納得しかねます。
>今度はまず、現在の日本共産党をこの右左観で見たらどういうことになるかという 側面への言及です。まず、新しい世界状況を取り込み、消化して、その世界把握概念 を発展させようとしてはいないという意味では、古い概念を墨守する人々が言うほど に「右傾化」しているとは言えないということです。
私もそう思います。人文学徒さんは、もっと右傾化してほしいということですか。 右傾化が現実化とか、実践的という意味においてなら私も大賛成です。
>理論が古いままで、それでやっていけるという自信もないままに見かけだけ変えて きたし、この見かけはこれからしばらくはもっともっと変わっていくだろうというよ うな、実にけったいな政党に見えます。
するどいご指摘と思います。
>理論は左の教条主義、表面はこれを隠してどんどんポピュリズムの「右傾化」を強 めるという、そういうみなさん既にご存じの実態を概観した上で、そういうことになっ てしまうさらにその「理論」というものを、もう一度ふりかえってみたいと思うので す。
>理論が古いままとは、以下の現象を見るだけでも明らかでしょう。まず、民主集中 制です。比較的古く資本主義に入った国の共産党でこれをまだ墨守しているのは、他 にはポルトガル共産党ただ一つと聞きました。
本当ですか。なら、他の国の共産党はどういう組織原則があるのか教えてください。 私は、民主集中制が悪いのではなく、規約が悪いのだと思っています。上の人だって 守れない規約を早く全廃すればよいと思います。一番規約を破っているのは不破氏の ような気がします。
>次いで、土台主義的社会主義観です。労働者階級の権力、生産手段の社会化、計画 経済という三条件を社会主義概念の基本とするという旧概念からほとんど踏み出して はいず、他は「民主主義的な計画経済」という何の保証もないスローガンを加えた程 度のはずです。この社会主義三条件を持っていたはずの東欧圏政府が全て瓦解したの に、その原因すら分析できないでいるということでしょう。
瓦解した東欧諸国よりも認識が遅れているということでしょうね。
>民主集中制が「労働者階級の権力」を腐敗させて官僚主義を生むから、これの廃止 を社会主義の定義の中に入れなければ東欧のように計画経済が破綻を来すなどという ことは、当分認めそうもありません。そして万事がこういった調子で、「土台の視点 からだけ文化を見るやり方」の無反省も理論上はそのままのはずです。
土台の視点という言葉は、解りづらいです。土台とは、「労働者階級の権力、生産 手段の社会化、計画経済という三条件を社会主義概念の基本とする」と考えてよいで しょうか?
>他方、ポピュリズムの方はどうでしょうか。古くは「執権」の問題、自衛隊のこと、 天皇制のこと、「前衛党」の問題、全くの議会主義政党になってきたとか、理論的に はいまでも革命の基盤と言っているはずの労働組合に対しての「指導」をほとんど放 棄しているとか、他にもまだまだいっぱいあるはずです。「古い理論と見かけの大衆 迎合」、「典型的な、理論的教条主義で時代遅れになった政党」と僕は見ています。
まったくその通り、哲学を捨ててしまった政党なので、基本的に軸足になるものが 全くない。選挙に勝つことだけが目的のような気がします。
>さて、どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。これを根本的、理論的 に振り返ることなくしては、党の運動論の根本である二本足も進むはずがないと考え ています。その意味では一般投稿欄4月7日にムーミンパパさんが「党は必ず二本足 に戻る」と言われているそのことも、遙か先の話と言うしかないのではないでしょう か。
私は、案外早く変化すると思っています。すくなくとも、国政選挙で全国一律に候 補者を立てない方針を打ち出したことは、評価すべきだと思います。このことによっ て救われる活動家は多いと思います。そして、なによりも自民党に脅威を与えたと思 います。
>問題はやはり「科学的社会主義」の「科学」という視点、「科学の目」などという 「そういう方法論」にあるのだと僕は考えてきました。
正にその通りだと思います。「科学」という言葉でだまして実は不破というドラ猫 に支配されていたのだと思います。それはわかっていても、その猫の首に鈴をつける ネズミがいなかった。なにしろ相手は東大出の秀才ときている。労働者あがりのネズ ミでは、歯がたたない。労働者の党の筈なのに左翼的エリート集団に占拠されていた のだと思います。
>1 科学とは己を無にして対象を見つめるというのが基本のやり方ですが、また、 党が好きな「知性」という概念も「理性」などと違って「主体を無にしてものを見つ める」ということを前提とする概念なのですが、こういう「方法」に「土台が人間の 意識を規定する」というマルクス主義の公式があいまって、党の理論には「主体」と いう側面、「人間実践」というものが元々根本的に欠けているということです。
まったく、人間性が無視されてきました。レーニンの思想の中に人間性の無視があ るのではと私は思っています。
>ちなみに党が「科学的社会主義」のバイブルと見る「空想から科学への社会主義の 発展」についても、根本的な誤読があると見てきました。この著作のテーマである 「歴史を勝手に切り盛りするような『空想』、『哲学』はだめだ」という命題をば、 「主体を無にして対象(そのほとんどは実質的には土台だけです)を受け取れ」とい ように理解しているのではないでしょうか。
残念ながら「空想から科学への社会主義の発展」を読んでいないのでなんともいえ ません。
>すると対象の世界の主体たちも見えなくなってくるというようなものです。人間と いうものの実際の生き方、己に真に大事なことは科学的であろうとなかろうと日々決 断して生きていくしかないというそういった人間の本当の実践的生活というものを見 ることができていないのだと思います。
そういうことなのでしょうね。
>2 1に呼応した人間論はこういったものでしょう。 土台、階級闘争などごく限られたことを行う人間たちと、その学習、宣伝を受け取る べきとされた認識主体としての人間たちが事実上その内容のほとんど全てになってい るということです。上部構造とくに文化の中に、土台、階級闘争に結びつきやすい面 しか見ないことによって、現実の人々を幻想的に見るしかないということでもありま しょうか。
現実の人々を幻想的に見るしかないというより、軽蔑的に見ています。軽蔑できな くなると逃げてしまうのではないでしょうか。
>階級闘争下の上部構造はねじれていると見るから、そのほとんどをまともに取り上 げないという体質を持っていると言ったら良いでしょう。目前の人間たちをもともと 一面的にしか捉えられない理論しか持てていないということなのだと思うのです。
その通りだと思います。
>3 そして以上のような体系的理論から以下のような運動論が出てきます。
「資本主義的土台の酷さを学習、宣伝する」、そうして「拡大をすれば選挙に勝っ て、要求が実現していく」と。極めて抽象的で、官僚主義臭が強く、無味乾燥な数学 の公式の抜け殻ような方針と言えないでしょうか。資本主義的生産の無政府性と、人 間の富の異常な偏在、富と人間の莫大な浪費は、現世界にある諸々の社会悪の根元と して早くなくさねばなりませんが、それは人々が認識すれば変えられるとか、国家が 変われば変えられるとかいうような、そんな生やさしい物でないはずです。この解決 方向は、試行錯誤を重ねながらの適切な社会的実践の積み重ねの先に見えてくる物と 言うしかないのではないでしょうか。
その通りと思います。
>単に党が大きくなればこれができるというものでもないでしょう。
自覚的党員で作る党が大きくなれば実現すると思うのですが。
>適切な社会的実践をその都度提起しつつそれらをしっかりと総括するという、指導 部のそれこそそういう科学性が試されていくのですが、
指導部だけではだめだと思います。指導部に責任があるという発想にそもそも私は 違和感を感じます。仮に共産党が政権をとったとしても、指導部が経済担当大臣にな るわけではない。経済に明るい人がやるべきです。指導部は党の組織運営にのみたず さわればよいと私は思います。指導部が力のないくせになにもかもやろうとするから 間違いが起きます。
>現在の指導部はそういう「実のある」戦線からはエスケイプしているようにしか見 えません。
指導部は、大胆に権限委譲をする腹が座っていないとおもいます。
>4 学習、宣伝に関して次のようなこともあります。誰でも土台、階級闘争という ものを「白紙の目」で見つめられるはずで、そうすれば誰でも変革意識を、労働者で あれば特にそれを持つことができるはずだと見ているということです。
誰が見ているのですか。人文学徒さんなら納得できますが、文章の主語がはっきり してないので、難解な文章です。
>他方マルクスやレーニンは「相当の社会的実践を経なければ変革意識は生まれない」 と考えていたはずなのです。今日の工業国のようなところではマスコミ、徹底した商 業主義文化の発展、まだまだ形式的な面があるにせよ民主主義の発展などによってマ ルクスやレーニンの時代よりもはるかに変革意識は生まれにくくなっているのではな いでしょうか。帝国主義誕生のちょっと後にレーニンがこう言いました。帝国主義的 利益のおこぼれを与えることによって一部の労働者を飼い慣らすことが可能になって、 それが社会変革を妨げていると。そして現在はレーニンの時代よりもはるかにこの困 難は増しているのだと思うのです。
変革する方向によると思います。理屈に合った変革ならば非常に早く変革すると思 います。日本共産党の考えている変革が理屈に合わないから抵抗しているだけで、自 分たちが幸せになる方向が示されれば爆発的な支持につながると思います。人々は、 現今の経済戦争に疲れはてていますから。
>世界的な独占資本は、レーニンの時代よりもずっと多くの「労働者」を飼い慣らす ことができています。しかも、そういう企業に属しているというそのブランド力だけ で労働者なのにエリートと目されるという、そんな妙な時代がやってきました。こん な時代ならなおさら、無数の思考錯誤を重ねながら考え抜いた社会的実践を国民に提 起し続けることを通してしか先述の社会悪の根元をなくそうとする変革意識も全く生 まれはしないのだと、僕は考えています。
生きるためには何でもやらなければならない。現状に満足している人は少ないでしょ う。矛盾を感じてもそれを解決できる糸口がない。糸口さえ見つかれば、変革のエネ ルギーは満ちあふれているように思うのですが。
自分が仮に恵まれた状態にいるとしても、子供は、孫はと考える。すると自分の死 後の子孫の困窮を考えて一家丸ごろしなどもはやっています。非常に希望の持てない 時代です。
>変革というものをこういう意識的実践の末に起こるものなのだと見るならば、フリー ターの方々が増えるというだけでは、悲しいことだけれど変革の入り口にも達するわ けではないというのは明白なことではないでしょうか。いつも言っているように、窮 乏革命論的な理論には全く信を置くことはできないということです。
窮乏は、変革の入り口にはならないし、むしろ入り口から遠ざかる要因であるよう に思いますが、エネルギーにはなると思います。
正しい変革の入り口を指し示すことが大切ではないでしょうか。指し示す前に、何 が正しい変革の入り口かを自分自身が探りだすことがもっと重要かもしれません。そ のための討論と私は考えています。