12日paul様、僕の投稿への「一言」、ありがとうございました。二つの事項 にお答えいたします。 まず、「存在が意識を規定する」なら別だが「土台が人間の意識を規定する」などと はマルクスは述べていないとのご指摘について。土台とか意識とか存在とか、これら の概念や命題の出生地とも言える、マルクス「経済学批判」の有名な「序言」から。
「人間はその生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立し た関係、生産関係にはいる。この生産関係は、彼らの物資的生産力の一定の発展段階 に対応する。これらの生産関係の総体は社会の経済的構造を形づくる。これが現実の 土台(僕の注A)であり、そしてそのうえに法律的および政治的な上部構造(注B) がたち、そしてそれに一定の社会的意識諸形態(注C)が照応する。物質的生活の生 産様式が、社会的・政治的・精神的な生活過程一般を条件付ける。人間の意識(注D) が彼らの存在(注E)を規定するのではなくて、逆に、彼らの社会的存在(注F)が 彼らの意識を規定するのである。」(大月書店文庫1962年版)
上記に見られる通り、この文面ではA、E、Fは同じ事項を指しており、それがB、
C、Dを規定するとなっています。問題になっている言葉がもともと比喩的な表現だ
から誤解を招くのですが、ここの内容から確かに、「土台が(人間の)意識を規定す
る」と読んで良いはずです。人間の意識は全てそういう規定をまず受けるということ
ですね。全ての諸個人の意識がです。もしPAULさんが「存在と意識」の命題を何
か諸個人の心理的な領域の事項のことのように考えていらっしゃったとしても、そう
いう諸個人にも上の法則はまず貫かれるのだと読むべきでしょう。
ドイツイデオロギーで以下のように述べてあるのも同じ内容に関わるはずです。
「人間たちが彼らの諸表象、諸観念等々の生産者であるが、しかしこの場合、人間た
ちというのは彼らの生産力とこれに照応する交通とのある特定の発展によって、交通
のいちばん果ての諸形成態にいたるまで条件づけられているような、現実的な、はた
らく人間たちのことである。意識は意識された存在以外のなにものかでありうるため
しはなく、そして人間たちの存在とは彼らの現実的生活過程のことである。」(大月、
文庫、真下信一訳)
いずれにしても、マルクス主義に関わって「土台と上部構造、意識と」など言う場
合、「土台」とは、経済的な生活過程のことであってそれが意識を規定するとマルク
スが言っていることには変わりはないでしょう。
二番目の問題として、上記のことを「(一方的に)規定する」とマルクスや党の見
解を僕が解釈しているとのご指摘に触れます。もしそうならば、この文中でこんな表
現は使いません。「土台、階級闘争などごく限られたことを行う人間たちと、その学
習、宣伝を受け取るべきとされた認識主体としての人間たち」と。つまり党も「認識
というものを広めることによって土台、世の中を変えようとしている」とは僕も見て
います。またあなたが引用したどこかの文の「上部構造の相対的独自性」(ここから
『土台への反作用』という概念も昔から使われてきました)とかのことは当然僕も踏
まえている命題です。僕の今回の投稿箇条書きは03年11月15日の投稿の乱暴な
要約であると記してあり、そちらにこういう表現を使いましたので、これを、この部
分のあなたへのお答えとあなたに誤読された文章の本来の僕の主旨とに、改めて換え
させていただきます。
「そう、上部構造の独自性はそれらしくあつかわれなければならないと、昔から口 では言われてきたことを僕は改めて言っているだけです。それが分かっていないから、 『資本主義の全般的危機の顕れだ』とか、『客観情勢は熟した』とかを『知らせよう』 式に、抽象的に、怠惰に、例えば統一戦線という政治的実践に換えて百年一日のよう に政治的スローガン宣伝や、新聞を広めるという認識的方法論しか思いつけない。 (中略) 主体たちの実践というものが欠けた客観主義と呼ぶべきです。僕は客観主 義的認識主義と呼んできましたが、とにかく実践らしい実践の位置付けがないんだと 思います。」
今回の投稿内容自身もここに書いたこととまったく同じ論理のはずなので、あなた のご指摘全体が僕には何か不思議な思いでした。
次にロム3様
丁寧なお返事をありがとうございました。まず、党の理論のいくつかは捨てるべき
だという意味では、理論的には「右傾化」して欲しいと僕は言っていることになるの
でしょう。土台の視点が強すぎて実践概念が弱すぎるとか(この点についてあなたの
質問がありましたが、これはpaulさんへの僕の回答にあるマルクス「経済学批判」
抜粋のような考え方の機械的な奴、例えば上部構造の土台への作用のほうを認識の問
題と考え実践の問題と考えることが少なくて結局「世界を解釈しているだけ」のやり
方などを指しています。)、だから文化問題に弱いとか、「世の中の人々の意識は資
本主義に規定されているけれど自分たち指導部の視野は階級社会を抜け出ているとか
いう感じの前衛党意識」とか、これらのことについては、僕はもう語り尽くしてきた
と思います。くれぐれも言いますがこの場合僕は、党の中央指導部を批判しているの
であって、無数にいる教条的でなく実践で説得力を示している立派な党員の方々とか、
他党よりも遙かに問題なく多い立派な地方議員の方々とかを批判しているわけではまっ
たくありません。教条的な方が良くないというのも、これ一重に指導部理論の欠陥と
いうことでしょう。
さて、こういう「方法論」がある以上、一律立候補をやめようが、悲しいことです
が富の極端な偏在による富と人間との極端な浪費とかが進む中で人々がますます困難
になろうが(この点で僕も新自由主義経済には特に反対し、経済のなんらかの計画化
という意味での社会主義を望んでいます)、変革に必要な意識的実践はできていかな
いと僕は考えています。ちょうど世界の共産党がいくら表面で反対はしても第二次世
界大戦を止められなかったように。そして、その後にその反省として社会主義国家が
生まれたけれど、実践問題に弱い試行錯誤からそれが失敗したというように。
次に民主集中制のことですが、何回も書いてきたように僕らは、多数決で決めると
かその結果に従うとかを批判しているわけではありません。僕が民主集中制で問題に
している事柄に関わっては、去年9月に「民主集中制を無くさなければならない理由」
でさつきさんが書いた諸規約の総体としての指導部を守り支えるような作用が、最も
総括的で適切な表現だと言いたいと思います。これについてのご意見を是非お聞かせ
ください。山本進さんはこのさつきさんの文章で初めて重大な事態を認識されたみた
いですが。 最後です。先回の僕の文章で、1~4の箇条書きは全て党についてのも
のです。従って主語が明示してない文の主語は、全て党と見ていただいて良いはずで
す。