ロシア革命は、長い間、レーニンの指導の下で成功したと語られてきた。そし
て、トロツキーはこの革命の裏切り者の烙印を押されてきた。しかし、実際に、この
革命を予言し、指導したのは、トロツキーである。後進国ロシアで、いち早く社会主
義革命が起こると考えたのは、トロツキーである。これは、トロツキーがレーニンな
しで、1905年の第一次ロシア革命を指導した事によって、確信出来た。レーニン
もメンシェビキもこのトロツキーの予想は、全く、理解できなかった。彼らにとって
は、社会主義革命は、先進国ヨーロッパで起こり、ロシアは後からついて行くしかな
い、と考えた。およそ、どんな革命・社会変革においても、指導者が、情勢を的確に
判断し、将来を予見する力が無ければ、成功する事が出来ない。この点では、トロツ
キーの能力は、レーニンを含めた全ボルシェビキよりも、抜きんでていた事は明らか
である。ロシアの労働者階級が、二度にわたる革命において、革命機関たるソビエト
の指導者として指名したのは、レーニンではなく、トロツキーだったのは、単なる偶
然ではない。
トロツキーはボルシェビキとメンシェビキの中間に位置して、両派の統一を志向し
た。この統一の思想こそが、トロツキーの思想の核心である。トロツキーの思想は、
セクト主義とは無縁であり、大きなセクトとは関わっていなかった。ボルシェビキと
メンシェビキの対立は、長い間、共産主義者と社会民主主義者の対立のように語られ
てきた。しかし、ボルシェビキもメンシェビキも、同じマルクス主義を自認していた
訳だから、実は、同じ共産主義者同志の対立であった。この対立は、イデオロギー上
の対立ではなく、組織論上の対立である。トロツキーは、レーニンの「民主集中制」
とセクト主義を批判して、党の統一を志向した。ロシアにおける社会主義革命を一早
く予想したトロツキーの「永続革命」には、ボルシェビキもメンシェビキも批判的だっ
た。ロシアの十月においては、トロツキーの「永続革命」にメンシェビキは背を向け、
レーニンとボルシェビキは支持した。十月革命で実証されたのは、トロツキーの「永
続革命」であって、レーニンの「民主集中制」ではない。これが、ロシアの十月に起
きた実際の歴史的な事実である。
メンシェビキは、ボルシェビキの革命は、悲劇的な結末が待ちうけていると、予想
した。今日の旧ソ連圏を見る限り、この予想は的中したと言えるだろう。メンシェビ
キは、確かに十月革命に背を向け、労働者階級を裏切ったのは事実である。しかし、
ボルシェビキは、己の成功に酔いしれ、メンシェビキを排除する事によって、メンシェ
ビキと同じように革命を裏切ったのである。双方とも、共産主義と労働者階級に対す
る指導性を自認しながら、なぜ、こんな結果になったのか? それは、双方とも、己
のセクト的な利益を労働者階級の利益の上に置いたからである。セクト主義は階級の
利益を激しく傷つけるだけでなく、己のセクト的な利益さえも、裏切る結果となる。
従って、労働者階級に対する指導性を確保するには、セクト主義を排除して、階級の
統一を志向することが絶対要件である。
トロツキーが、大きなセクトを率いていないにも関わらず、二度にわたるロシア革
命で、主導的な役割を果たし得たのは、この事による。トロツキーはボルシェビキと
の合流以前は中間主義・調停主義と批判された。しかし、トロツキーの「中間主義」は、単なる妥協主義ではなく、労働者階級の統一のための調停主義であり、労働者階級を革命へと導く統一の戦略思想であった。
労働者階級に対する指導性は、どれだけ大きなセクトを率いているかによってでは
なく、この階級の未来と責任を見通す知性こそが、不可欠な要件である。セクト主義
的な知性は階級の未来ではなく、己のセクトの未来を優先するから、セクトの未来は
階級の未来と激突する。未来への展望が見えないのは、階級自身の責任ではなく、階
級の上に己のセクトの利益を置く知性の責任である。長い間、西側の世界でも、社会
主義社会とは、「社会主義者」が社会の上に君臨している社会を意味してきた。「社
会主義政党」の後退は、右転落を意味してきた。何よりも、ソ連の存在がこうした幻
想を社会主義者自身の中に与える力として作用した。しかし、ある社会がどんな社会
であるかは、自称「社会主義政党」の議席によって決まる訳が無い。社会主義的な社
会とは、労働者階級が政治的なヘゲモニーを取っている社会なのであって、自称「社
会主義政党」や、まして、「科学的社会主義」を自称する空想的社会主義の政党が、
社会の上に君臨している社会とは、全く無縁であるばかりでなく、その正反対である。「科学的社会主義」を自称したソ連は、幻想的な社会主義体制であった。「民主集中性」の科学は、全くの幻想でしかない。多様性と多元性こそが現実であり、発展方向である。これを否認する「科学」は空想を超えて、幻想になる。
トロツキーは、一度たりとも、党を階級の司令部と見たことはない。トロツキーに
とって、党はあくまでも、階級の道具に過ぎない。この点では、レーニンとは若干、
見解が異なる。スターリン主義者は、度々、我こそは正当なレーニン主義であり、ト
ロツキーはレーニンを裏切った反革命だ、と主張した。トロツキーはレーニンの革命
思想を受け継いでいるのは自分自身であって、スターリン主義こそ、革命の裏切りで
あり、レーニンの思想に対する裏切りであると弁護せざるを得なかった。しかし、ト
ロツキーは、「裏切られた革命」において見られるように、「民主集中制」の組織論
がもたらした官僚主義に対しては、徹頭徹尾批判的であった。トロツキーは、確かに
ボルシェビキを擁護した。しかし、擁護したのは、革命を裏切ったボルシェビキでは
なく、「永続革命」を勝利に導いたボルシェビキである。「民主集中制」のボルシェ
ビキではなく、「民主集中制」と言うセクト主義を乗り越え、階級の利益に奉仕した
ボルシェビキを擁護したに過ぎない。
実は、レーニンの「民主集中制」は、ロシアの社会民主党を民主的な機関にするた
めの組織論であった、と考える事も出来る。日本社会党においても、下部党員は左を
志向し、指導部は右を志向する、と言う現象はたびたび起きた現象である。ボルシェ
ビキ(多数派)は党大会では多数派であっても、政治的には少数派であり、メンシェ
ビキ(少数派)は党大会では少数派であっても、政治的には多数派を代表していた。
共産党も含めて、党指導部は否応無しに労働貴族化する、というのは古今東西、絶対
に避けられない。しかし、それだけではなく、実際の政治力学のもとでは、権力・保
守勢力・他党派との、複雑な妥協は避けられない。下部では激しく戦いながらも、上
部では仲良く妥協・和解する、と言うのは、何も裏切り行為でなく、避けては通れな
い自然な政治力学である。指導部が右を志向するのは、単に、労働貴族化したからだ
けではなく、こうした力学上、避けて通れない妥協からくる一面もある。
レーニンの民主集中制論は、こうした力学を強引に断ち切り、左派だけで結束した
司令部的な党を作ろうとした。今日の世界の視点で見れば、メンシェビキとボルシェ
ビキへの分裂は、果たして、避けては通れない正しい選択だったのか、再検討の余地
がある。例え、この分裂が無かったとしても、2月革命後の動乱のロシアの中では、
否応無しに、社会民主党全体の左旋回は避けられなかっただろう。ロシアのソビエト
を構成した労働者と兵士は平和と土地を求めていた。動乱のロシアの中では、この民
衆の願いに逆らえば、どんな党や党派も忽ち、見捨てられただろう。実際にも、レー
ニンなしのボルシェビキ国内指導部はメンシェビキと同じ道を歩き始めていたのであ
る。十月革命を成功させた知性は、「民主集中制」というセクト主義ではなく、「永
続革命」、つまり、ロシアの労働者階級こそがロシア革命を指導できるという思想で
ある。トロツキーはメジライオンツイとボルシェビキの合同に当たって、ボルシェビ
キのセクト主義を指摘・批判しながら、このセクト主義を「より民主的な運営方法を
対置する」ことによって克服する必要性を訴えた。分裂の知性ではなく、統一への民主的な知性こそがこの革命を指導できた。。