最近ちょっと考えたことをお伝えして、皆様の討議を受けたいと思っています。表題のように「論理と理論と見解と方針」というように、ともすれば互いに良く似ておりごちゃ混ぜにされる傾向にあるものの実は違うものについて分析してみました。学問的にどう説明するのかは別にして、私は次のように区別してみました。「論理」とは、物事の考え方の筋道のことをいう。「理論」とは、「論理」に従って導き出された物事の認識の仕方をいう。「見解」とは、「理論」に従って導き出された物事に対する実践基準を云う。「方針」とは、「見解」に従って導き出された具体的な実践方法を云う。仮にこのように定義づけるとして、なぜこの区別が必要なのかということについて意見してみようと思います。
「論理と理論と見解と方針」のうち「融通性」の効くものと効かないものを知っておくべきではないかというのが、私の気づいたことになります。「融通性」は、それを一方向に強めれば「寛容さ」になり、中ぐらいのところが「融通性」であり、逆方向に強めれば「排他的」になるという相関関係にあるものとして、一般的には「寛容さ」が尊ばれ、「排他的」であることは嫌われる傾向にあります。中ぐらいの「融通性」とは是々非々主義ということでもあり、これはこれで良いことなのでしょうが、かなり難しく、一歩誤れば場当たり主義という欠点を持つことにもなります。
なるほど、しょせんお見通しがいい加減でしかない凡人たるわれわれにとって「排他的」であるよりは「寛容さ」の方が処世法としては無難であると思われます。しかし、しかしと私は考えました。先の4区分のそれぞれの「寛容さ」と「排他的」の度合いは微妙に違うべきではないかというのが私の論点になります。
私の考えでは、そういう差異があるべきであることに加えて、各自においてもまた、この関係のさせ方が微妙に違うのではないか。ちなみに、私の理想的な関係のさせ方は次の通りです(図示します)。
排他的度 | 融通度 | 寛容度 | |
論理 | ○○ | × | ×× |
理論 | ○ | △ | × |
見解 | × | △ | ○ |
方針 | ×× | ○ | ○○ |
(○とは、その傾向が強い。△とは、やや弱い。×とは、その傾向が弱い。という意味で使っています。)
つまり、私は、考え方の筋道をつくる「論理」を重視しており、「方針」については柔軟性を持たそうとしています。上記の図の見方が判らないという方に説明します。「論理」は、排他的であって、融通がきかなくて、寛容でないというのを自然とするという意味に了解しています。「理論」は、同じ傾向の幾分トーンを下げたものであるべきだとしています。「見解」は、やや柔軟になり、寛容的であるべきだとしています。「方針」は、さらに柔軟であり、非常に寛容的であるべきだとしています。人によってはこの逆を理想的な関係とする人もおられると思います。つまり、「論理」のこだわりはさほどでなく、「方針」の一致こそ大事とみなす発想の人という意味です。
どちらが良いとか悪いとかは一概に言えないかも知れませんが、少なくとも議論の前提としてどこの部分の話かを整理しておかないと、お互いに話が噛み合わなくなるのではないでしょうか。ちなみに、「教条主義」といっても、「論理」又は「理論」の教条なのか、「見解」又は「方針」の教条なのかを明らかにしないと噛み合いません。もっとも「盲従主義」というのもあるなぁ。おそらく、「折衷主義」というのは、「論理」が違うものから導き出されたものを一緒にすることをいうのですよね。
私が「論理」に拘るには訳があります。人は皆自分に固有な論理を持っており、ひょっとすると階級闘争という面だけではなくて、人は「論理」の闘争をしているのかもしれないと思うからです。似た「論理」の人達と他の「論理」の人達との攻めぎ合いが常になされているのではないかなぁと。この「論理」の背景には、「気質」というものがあり、人は皆その「気質」に応じた「論理」を持っているのではないかとも思っております。この考え方は階級闘争理論を否定しようというつもりで云っているのではなく、それとの調整的な組み合わせとして止揚させたいと考えているのです。しかしながら、私にはそこに向かう知力が足らない。誰かが見事に解析してくれるのを期待しているのです。
なぜ、そう言う必要があるのかというと、世の中の実際にはブルジョアであれプロレタリアであれ、助け合い志向の人と足の引っ張り合い志向の人がいるわけです。気難しい人とお人好しがいるわけです。丁寧な人と乱暴な人。姿勢の低い人と傲慢な人。こういうものの差異が環境的なものだけで生み出されたものとはどうしても思えない。この世の中は、そういう「気質」というか「論理」に従って似たもの同士が集まったり励まし合ったり闘争しあったりしているようにも思えるのです。人は自分を愛すれば愛するだけ、同じような自分を見出しうる人達に親近感を覚え、そういう人または人たちが仮に悲惨である場合に自分のことのように立ちあがり……、これが本来の社会主義運動のモニュメントではなかったのかなぁ。僕に言わせれば、マルクスでさえこの点では袋小路に入ってしまったのではないかと思っています。傲慢なとらえ方でしょうかねぇ。
とりあえず投稿させて頂きました。