はじめまして。10/3のカワセンさんの投稿を読んでちょっと書きたくなったので、投稿させてもらいます。
まず、編集部のBさんの発言に対してですが、これはすぐに理解できます。私たちの最終的な目標は、一言でいうなら共産主義社会の実現です。この実現のためにはさまざまなコースが考えられますし、そのどれをとってみても政権につかなければならないかも知れません。しかし、それはあくまで必要条件なのです。政権を担うこと自体が目標ではないのだから、その担い方が問題になるのです。最終目標を達成できないような形でなら、政権についてはいけないのです。それで、今回の中央のやり方は、まさにこの避けるべき形であったのだと思います。
次に、マルクス主義のことですが、私はマルクス主義が科学だと考えていますし、私の周りにもそのように考えている人がたくさんいます。それと、「また、マルクスの思想はあくまで『共産主義』であって、どんな形容がつこうが『社会主義』ではないですし」というのも意味が分かりません。できれば解説をお願いしたいです。
ところで、「マルクス・レーニン主義の呼称を改めて科学的社会主義と統一した」ひとつの理由は、「マルクス、エンゲルス、レーニンらの学説を教条とするものではない」から、と規約にはあります。しかし、ここは十分注意する必要があると思います。「教条的になってはいけない」といくら叫んでみても、それだけでは全然意味がありません。というか、かえって害のあるものだと思います。
私はむしろ、マルクスやエンゲルスの古典を読む場合には、教条的になった方がいいと思います。それは、マルクス・エンゲルスと自分の実力を比較してみると、あまりにも差がありすぎるからです。よく「批判的に読む」ということで、マルクスやエンゲルスの古典を読んで、見当違いのところで文句を言っている人がいます。これは本人にとっては「批判的な読み方」であっても、実は主観的な読み方に他なりません。批判的な読み方をするには、著者に相応した実力が必要なんだと思います。
だから、まずは無批判的に受け入れて、自分の実践のなかでその正しさを証明していくという態度が重要です。ちょっとくらいの実践で証明できないからといって、疑うのはよくないと思います。このような実践を通して、自分の活動の経験からその特殊性を把握する能力(これは他の経験から学ぶための前提条件ですが)が養われていくのだと思います。そうすると、古典の内容についても、普遍的なことと特殊的なこととを正しく区別できるようになるので、その特殊的なことをそのまま自分の実践に適用するという誤り(これが本来の意味での教条主義)に陥らなくなるでしょう。また、古典にある普遍的なことを自分の特殊的な条件の下で活かす能力も高まっていき、古典がまさに羅針盤として活用できるようになるのではないでしょうか。
最後に、マルクス主義軽視の傾向について、少しいわせてもらいます。
最近(といっても昔のことはよく知らないのですが)は、入党工作でどんどん党員を増やそうとしています。もちろんしっかりした党員が多いに越したことはないのですが、いわゆる「自覚」が足りない人が多すぎます。これは、いまの党員の「自覚」が足りないからです。現状では、民族民主統一戦線レベルならまだしも、民主連合政府レベルの一致点で党に迎え入れているように思われます。これではダメです。私たちは前衛党員なのですから。
さらに、古典学習にしてもひどいものです。『空想から科学へ』であれ『フォイエルバッハ論』であれ、講師の方が、「要はこういうことだ」ですましています。初心者向けの学習会ではこれでもいいのですが、問題は講師自身がこのレベルでしか理解していないという点です。極度に矮小化されており、弁証法的な世界観といっても常識的なそれでしかなく、日々の活動に役立っているとはとても思われません。
しかし、ここには「さざ波通信」の編集部の方をはじめ、中央に盲従しない、志の高い方が何人もおられるようなので、少し安心しました。ひょっとしたら共産党も何とかなるかもしれない、と思えてきました。私の見解に対しての批判等は大歓迎ですので、私への協力だと思ってどんどん批判してください。