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「科学的社会主義」討論欄

科学についての19世紀的認識

1999/10/21 吉野傍、30代、アルバイター

 chunta さんとカワセンさんとJ.Dさんの論争に横レスさせていただきます。
 chunta さんにしても、カワセンさんにしても、「科学」という言葉を使うのに非常に大きな反発を示しますね? これは、マルクス主義に関してのみ「科学」ではないと言いたいのか、それとも、そもそも「社会科学」というものがナンセンスだという考えなのか、ぜひ聞いてみたいところです。
 それとお二人とも、偶然の一致でしょうが、マルクス自身が「科学的社会主義」という言葉を使っていないということを非常に重視されているようですが、そういうお二人とも「マルクス主義」という言葉を使うのはなぜなんでしょう? マルクスは、「マルクス主義」という言葉が嫌いで、「私はマルクス主義者ではない」とさえ言ったことがあるぐらいなのに。
 chunta さんは、「科学」というのは、「絶対性」「必然性」を持っていなければいけないとおっしゃいますが、これこそ奇妙な認識ですね。自然科学においてすら、「絶対性」や「必然性」が単純に言えないことは常識のはず。19世紀的な力学的自然科学の時代ならまだそのような認識はありえましたが、量子力学と相対性理論以降は、そのような「絶対性」「必然性」が必ずしも自明には言えないことが明らかになっています。ある一定の確率でしか結果を予想できないことは、自然現象においていくらでもあるわけです。
 社会現象をまったく宗教的ないし空想的に考える立場ではなく、もろもろの社会現象の物質的基盤を明らかにし、現実的・具体的な分析にもとづいて、相対的な必然性を明らかにすることは、十分、「科学」の名に値すると思うし、そのかぎりで、マルクス主義と称されている「知の体系」を「科学的社会主義」(ただし未完成で、開かれた「学」として)と総称することは、そんなに無茶なことではないと思いますけどね。
 私個人はあまり「科学的社会主義」という言葉を使いませんが(ペダンチックな感じがして好きになれない)、「科学的社会主義」という言葉を用いたからといって、そんなにつっかかる心理がどうも解せません。推測するに、現在のわが党指導部が考えるような教条的でスターリン主義的な科学観にもとづいて、「科学」という言葉を使うとはけしからん、と反発しているのではないでしょうか?
 また、chunta さんは、「史的唯物論」は、「まったく根拠にかける」と断言していますが、その理由についてお教えください。また、「未来社会の必然性を語ることほど、人間の主体性を無視した話などない」というのも、よく理解できない批判ですね。マルクスが言う「必然性」はあくまでも「相対的必然性」であり、かつ、人間主体の変革の営為を前提にしたものです。人間は自ら歴史を作るが、一定の歴史的諸条件のもとで歴史を作るわけです。
 また、資本主義社会というのは、「物象が人格を支配する」無政府的社会ですから、個々の人間の主体性を越えたところに、あたかも自然現象のように、経済的結果が襲いかかってきます。資本主義を越えて社会主義を実現するということは、まさに、物象の必然性に支配された社会段階から、人間の主体性が尊重される社会に切り替えることでもあります。この社会展望のどこに、「人間の主体性の無視」があるのでしょう?
 また、chunta さんは、「歴史の移行を科学的に論証することなど不可能」と断言していますが、その根拠についても教えてください。「科学的に論証」という意味が、例によって「絶対性」「必然性」を意味しているとすれば、「歴史の移行」のみならず、多くの自然現象も「科学的に論証することなど不可能」です。たとえば、生物進化の過程一つとっても、多くの仮説にもとづくほかありません。しかし、もろもろの仮説はいずれも科学的に同価値というのではなく、荒唐無稽で空想的なものから、さまざまな物的証拠にもとづいた「より確からしい」ものまで千差万別です。「絶対性」「必然性」を持ちえないから、科学ではないということにはなりません。
 いわゆる「科学的社会主義」は発展途上の学問ですから、当然、多くの部分が未知数であり、空白であり、また多くの欠陥を持っています。しかしながら、このことと、「科学的社会主義など放棄して当然」ということとは、けっして同じではありません。いったい、chunta さんは、「科学的社会主義」ないし「マルクス主義」を放棄して、いかなる「イデオロギー的仮説」にもとづくのでしょうか? また、ある特定の「イデオロギー的仮説」を選ぶ基準は何でしょうか? ご教示願います。