chuntaさんはどこで唯物史観について学ばれたのかは知りませんが、私の学んだもの・かつ学んでいるもの・とは大きく違うようです。
唯物史観が論拠にかける、というのは一体どの程度まで検討された後の結論なのでしょうか。chuntaさんは、唯物史観が人間の主体性を無視している、と主張されているわけですから、ほとんど原典を読まれていないか、あるいは理解の仕方が私とは正反対なのでしょう(私の理解では、『フォイエルバッハ・テーゼ』第一を書いたマルクスが、人間の主体性を無視した歴史観をうち立てるはずがない)。
「歴史の移行を科学的に論証することなど不可能なのです」というのは、あなたにとっては、という条件付きのことでしょう。あなたができないからといって、他の人もできないと判断するのは誤りです。この発言は、マルクス・エンゲルスには当然のこと、現在社会科学を学んでいる多くの学者や学生にとってもかなり失礼なものですよ。もし一般的に論証不可能、というのであれば、なぜそう言い切れるのかを説明しなければ、それこそ「論拠にかけるもの」でしょう。
ちょっと聞きたいのですが、chuntaさんはひょっとして共産主義社会など来ないと考えられていますか(もちろん、社会発展の担い手は人間なのですから、共産主義社会というのは人間が主体的に実現させるのですよ)。もしそう考えているのなら、入党した理由も聞きたいですが。
ここまでで終わってしまうと、あまり建設的な議論とはなりませんので、一応私が理解している限りの唯物史観について、特にchuntaさんと理解が異なっていると思われる部分を中心に述べさせてもらいます。批判・意見は大歓迎です。
人間は能動的な活動によって、自分たちの生活資料を生産します。生産というのは一般的には労働を対象化することです。したがって、生活資料は単なる客体なのではなく、人間的な・主体的な・性格を持つものとして把握することができます(古い唯物論ではこのような把握ができなかったために、人間の能動的な側面は、観念論によって展開されることになりました)。
この生活資料を消費することによって、人間自身が創られ加工されていきます。この際、生活資料に対象化されていた労働は、人間に対象化されます。だから、ここでは人間の生産が行なわれる、ということもできます。
このような生活資料の生産とそれによる人間の生産を、生活の生産と呼びます。この生活の生産こそ歴史の原動力であって、現実の人間を理解する基礎なのです。また、生活資料の生産の仕方は、人間の生産を規定するのです。「意識が生活を規定するのではなく、かえって生活が意識を規定するのである」(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)。これが唯物史観です。
読んでもらえれば分かるように、剰余価値の発見(あるいはマルクスの経済学)と唯物史観は、相互に密接な関係があります。というより、唯物史観は経済学研究の基礎の上に築かれた歴史観なのです。別な言い方をすれば、社会主義社会の必然性というのは、経済学の研究のなかで資本主義を分析し、この社会が抱えている生産の社会性と生産手段の私的所有という矛盾を解決するために導きだされたものなのです。ちなみに、生産力と生産関係の矛盾というのも、やはり経済学研究に基づいています。
以上のような理解は、基礎中の基礎だと思うのですが、この基礎だけ考慮してみても、マルクスの二大発見を切り離して考え、一方は科学的だが、他方は非科学的だ、という類の主張は、論拠がないものと考えます。あるとしても、マルクス主義者の(というよりむしろ共産党員の)怠慢くらいでしょう。