このところ、マルクス主義そのものに関する投稿がたくさん寄せられていて、読んでいて非常におもしろく感じます。この人も理念としてのマルクス主義は擁護してるんだなという、意外な発見(^^)なんかあったりして、興味の尽きる暇がありません。このような議論の中に顔を出すのはちびっと根性の要ることかとは存じますが、素朴な疑問?程度の話題として、私も参加したく思います。
日本共産党も含め、マルクス主義を理論的柱とする政党、組織の究極的な行動目標は何でしょう? これをとったら存在意義を失うというもっとも基本的なものは何でしょう?
私は生産手段の私的所有の廃止~生産の社会化だと思います。マルクス主義(または社会主義)を標榜していながら、こいつをないがしろにする政党や組織は、歴史上「修正主義」「噴飯ものの考え」として、日本共産党等に手厳しく批判されてきたのは周知のとおりです。
さて、この、生産手段の私的所有の廃止~生産の社会化ですが、歴史的に壮大な実験がなされました。ソ連は言うに及ばず、東欧でも中国などでも、これが社会主義~共産主義の目標だとして、一律に追及され続けました。
その結果どうなったかは、今さら言うまでもありません。
生産手段の私的所有の廃止~生産の社会化によってかの国々に登場したのはどういう社会体制だったのでしょう? 労働者のための体制でしょうか?農民のための体制でしょうか? これまた、今さら言うまでもないことですね。労働者のための体制でもなければ、農民のための体制でもありませんでした。そのためにこれらの国々は崩壊し、中国においては改革開放政策にその座を譲りつつあります。
「本来の社会主義」という言葉があります。日本共産党しかり、そして、ゴルビー時代の改革派、東ドイツの改革派もみな、「本来の社会主義」という言葉で、スターリン体制を批判し、社会主義そのものは堅持しつつその体制を「よくしよう」としました。けれどそれさえ不可能だったことは、これまた今さら言うまでもありません。
生産手段の私的所有の廃止~生産の社会化を達成した場合、搾取はなくなるのでしょうか? いいえ、なくなりません。搾取する主体が資本家から国家に変わるだけです。共産党による一党独裁の場合、搾取する主体が共産党に変わるだけです。
ごく単純に考えても「「搾取」がなくなる」とは到底思えません。「働いた分だけもらえる」としたら再生産はどうするのでしょう? 古くなった生産手段を新しくするための財源はどこに求めるというのでしょう? 将来的には「人民の支える一定の組織に余剰分をたくわえる」ことになるのかもしれない。しかしこの組織は、歴史上の官僚組織と、どこがどうちがうというのでしょう。汗水たらして働くものが財源の管理も行う? しかし……そういう触れ込みでロシア革命は起こったんだよ。レーニンは「そうした管理は実に簡単なことだ」と言い切りました。その結果どうなったか? 現実はあまりに厳しく、ネップを導入せざるをえなくなりました。しかしネップによって立て直された経済は「暫定的なものにすぎない」として、スターリン時代、もとの戦時共産主義にもどりました。そしてそれが、その後のソ連の経済体制になりました。日本とは歴史的背景が違う? さて……、ことはそんなに単純ですか?
歴史的に目の前で展開された社会主義に対し、まさに労働者、農民がノーを突きつけました。勇気あるインテリはその時代、「本来の社会主義を」と言いました。どちらの言い分が勝ったかは、これまた今さら言うまでもありません。それが性急な選択だったかもしれないという保留はいくらでもつけられるとは思いますが。
「本来の社会主義」、「本来のマルクス主義」を擁護する方々に問いたい。生産手段の私的所有の廃止~生産の社会化はどうやって実現するのか。管理はだれが受け持つのか。社会化した生産は計画経済なのか、それともそうではないのか。計画経済でないとしたら、かつての国鉄、電電公社のような企業になるのか。この辺をはっきりさせていただきたい。そして、「歴史の二の舞」にならないための保障を、いったい何がどう実現するのか、これについても詳細な議論を展開していただきたい。
複数政党制(東独におけるエセ複数政党制は論外)によって、生産手段の私的所有の廃止~生産の社会化を実現する道もあるでしょう。未知数であるだけに、この路線に希望を託す潮流は、少なくとも日本においては一定の強力な勢力として生き続けるでしょう。しかしねぇ、路線が実に不明確ですよ。みなさん「本来のマルクス主義」としか言わない。だったらレーニンは最初から「本来でないマルクス主義」をめざしていたんですか? そんなことはないでしょう。それではあまりにレーニンに対して失礼というものだ。
私は、「本来のマルクス主義」が歴史的に敗北したと考えます。少なくとも、生産手段の私的所有の廃止~生産の社会化が歴史的な必然であり、これによって人間は解放される、これが「本来のマルクス主義」における究極の実現目標とするなら、「本来のマルクス主義」自体、根本から疑ってかからなければならないはずのものであると、私は思います。