本来、私のような末端で未熟な党員がこの問題に詳細な答えを出せるはずがないのです。しかし、今の指導部はおそらく、「青写真は描かない」ということで、社会主義社会については何も語ろうとはしないので、私の考えを書いてみます。
まず簡単なところから。「働いた分だけもらえる」というのは「労働に応じて受けとる」という意味ですよね。それなら働いた分だけもらっても再生産は可能です。ただし、拡大再生産ではなく単純再生産ですが。私自身は相当特殊な仕方でマルクス主義を学んでいるものですから、一般的にはどのようにして学ばれているのかはあまりよくわかりませんが、『資本論』を読めば上のことが可能だとわかるはずです。簡単に説明しておくと、資本(C)は不変資本部分(c)と可変資本部分(v)、それに剰余価値(m)からなっています。不変資本部分というのは、生産諸手段の総価値です。だから、たとえ剰余価値がすべて労働した人のものになる(=搾取がなくなる)としても、以前と同じ生産手段であるならば再生産が可能なのです(なお、『資本論』第一部第七篇第二十一章には、単純再生産の繰り返しが新しい性格を生むことについて書かれていますが、ここでは省略します)。
それと、浩二さんの「生産手段の私的所有の廃止~生産の社会化」という表現についてですが、「生産の社会化」は、資本主義社会でも実現されているのですよ。生産は社会的であるのに取得が個人的であるのが、資本主義の根本矛盾なのです。この矛盾を解決するためには生産手段の社会化(=生産手段の私的所有の廃止)をすればよいのです。
さて本題の社会主義社会への移行の問題ですが、マルクス・エンゲルスは高度に発展した資本主義社会からの移行を想定していました。初期の段階の資本主義では、資本家は労働の監督を行います。しかし、資本主義が発展すると、労働過程自体が複雑になっていき、その結果として監督労働も複雑多岐になっていきます。そうすると、監督労働そのものも、一つの独立した部門として労働者が請け負うようになります。さらに、生産の管理・運営の仕事も労働者が行うようになり、資本家の不必要性が明らかになってきます。このような段階でなら、生産手段の社会化を行っても労働者の自主的管理で生産を行うことができるのです。
しかし、ロシアその他の国々の場合、資本主義が未成熟な条件の下での革命でした。そのために、すぐに思いつくだけでも二つの不都合がありました。第一に、労働者の自主的管理によって生産が行えるほど、労働者の管理能力が養成されていなかったのです。第二に、生産力が不十分だったのです。この二つの理由のため、国家が経済を管理・計画して、剰余価値の大部分を拡大再生産にまわして生産力を高めると共に、労働者に管理能力を身につけさせるべく教育を行う必要があったのだと思います。
以上は、かなり一般的な内容であるだけに、そんなことはわかっている、ということかもしれませんし、あるいは説明不足でわからない、ということかもしれません。それなら、その旨を伝えてください。
ただ、一つだけ言わせてください。浩二さんは、「ごく単純に考えても」と言っておられますが、科学的思考というのはある意味単純な考え方を否定する考え方だと思います。単純に考えて物事の本質がわかるなら、科学は要りません(例えば、ごく単純に考えれば、太陽は地球の周りを回っているのです)。特殊な条件の下での社会主義への移行が失敗に終わったという歴史的事実のみをもって、この単純な事実のみをもって、「本来のマルクス主義」が歴史的に敗北した、と言う結論を出すのはどうかやめて欲しいと思います。