私はもちろん、chunta さんとカワセンさんを区別しています。科学を「絶対性」「必然性」において理解したのは、chunta さんであり、私の文章もちゃんと区別して用いています。カワセンさんの科学観については、最初の文章だけではわからなかったので、その点については何も言っていません。
しかし、今回の新しい投稿を読むかぎりでは、やっぱり、別の意味で、科学の19世紀的認識にもとづいていると言わざるをえません。カワセンさんは、科学についてこう書いています。
「『科学』とは仮説を立て、実験などの検証によって実証できる知の体系のことでしょう」。
これこそ典型的に19世紀的科学観です。実験室的状況で再現できる自然現象というのは非常に限られていて、きわめて大規模な自然現象やきわめてミクロな自然現象、あるいは進化やビッグバンなどの不可逆的自然現象は、実験などによって再現も検証もできないし、また、きわめて複雑な現象(人間心理や生態系)もまた、実験で単純に再現できないわけです。20世紀の科学の領域は、19世紀におけるような実験可能な局地的水準を大きく踏み越えているのです。
いわゆる社会現象もまた、巨大であるというだけでなく不可逆的であり、またきわめて複雑であるという点からして、実験による検証を単純には言えない領域です。したがって、「実験による検証」という19世紀的基準を持ち出して、社会主義の実験は失敗したなどと単純に言いきれる人々は、20世紀の自然科学についても、社会科学についても、およそまったく理解していない人々であると言わざるをえません。
「科学」を絶対的なものと理解した上で、「科学的社会主義」という呼称に噛みつくのはナンセンスであるというのが私の主張です。しかし、「科学」がいかに絶対的ではないからといって、荒唐無稽な「仮説」(たとえば、さまざまなトンデモ本が言っているような諸「理論」。山を登ると気温が下がるのは、太陽が熱くない証拠だとか、カラスの死体がないのは、自然界の動物は死ぬと同時に物質が消滅するからだとか、地球が自転しているのは常に地球を回す力が働いているからだとか、等々)と、具体的な諸事実、データ、そして合理的推論にもとづいた科学的「仮説」との間には、巨大な落差があるのであり、科学的社会主義で言うところの「科学」もまた、単なるイデオロギー的「仮説」ではなく、そのような科学的「仮説」であると言っているのです。
以上のような理解に立つなら、「科学的社会主義」という呼称そのものに噛みつく理由はないと考えます。
ところで、カワセンさんは、「ここでのマルクスの真意は、一切の教条化への拒否、ということであり、つまりは『科学的社会主義』という言葉を使うことへの批判的な姿勢もそこには含まれていると思うのですけどね」とおっしゃていますが、この主張にも根拠はありません。「一切の教条化への拒否」ということであれば、マルクスという個人名を冠した言葉(マルクス主義)よりも、そのような個人的制約を有していない「科学的社会主義」という呼称の方が妥当だということになると思いますが、どうでしょう。
マルクス主義や、マルクス=レーニン主義という呼称を使うかぎり、どうしたってマルクス本人、レーニン本人の言ったことを教条化しがちです。そうではなく、彼らの理論的功績にもとづくけれども、その歴史的・時代的限界を越えて、よりその理論を発展させようとするなら、より一般的な呼称を使ったほうがいいのではないですか? 「科学的社会主義」に代わる何かいい一般的呼称があるのなら、私はそれを使います。