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「科学的社会主義」討論欄

「科学」自体をドグマ化する「論理」(吉野傍さんへのレス)

1999/10/29 カワセン、40代、自由業

 私が「科学的社会主義」というネーミングを批判した理由は、マルクスの思想(マルクス主義)をそのように表記することで、歴史的マルクスの思想とは離れた、党派的なドグマでしかなくなってしまっているがためでした。そのことを言うために、「科学」の問題について、
1)「科学」を絶対的真実であるとする、単純な「科学」観が問題であること
2)1)のような科学観は、現代社会ではむしろ少数派であり、全体としては「科学」への信頼が薄れている現状にあること
 を指摘しました。

 それに対して、吉野傍さんの反論は、20世紀における「科学」は19世紀以前のそれとは違う新しいものなのだから、「科学的」でやっぱりいいんだ、と言うことのようです。そして、私が書いた「仮説を立て、実験などの検証によって実証できる知の体系」という科学観を19世紀のものとし、検証によって実証される必要はなく、また実証の結果に惑わされる必要もないかのように言われてます。  しかしこれはどんなもんでしょうか? 確かに、量子力学や相対性理論が切り開いた地平は、19世紀以前に人類が知っていたものとはまったく異なるものでした。しかしながら、その内実は、吉野さんが言われているように、対象がただ単に「実験室で扱えるものからもっとミクロやマクロの世界へ」と量的に広がった、というだけではありません。もっと質的な変化だったのです。しかも、いわゆる「マルクス=レーニン主義」はそうした新しい科学の動きに対応できなかったという事実も忘れてはならないでしょう(レーニン『唯物論と経験批判論』のあやまちは今日では常識)。まあ、「マルクス=レーニン主義」と「科学的社会主義」とは違う、と言われればそれまでですが(笑)。

 20世紀の「科学」は検証では捉えられない!? そんなことはありません。吉野さんは「実験」ということを狭く考えられているのです。いまここで、もう少し具体例を挙げればいいのですが、私のほうもあまり時間もなく、また得意分野でもありませんので、あやふやな記述で申し訳ありませんが、進化論やビッグバンなどについて少し触れます。ダーウィン進化論にしても、化石などによって、ほかの仮説(たとえば『聖書』による天地創造説)より「相対的な真実度」が高いことが検証されているからこそ、現時点での人間や動物の進化の説明として、科学的であると認められている訳でしょう。アインシュタインの相対性原理にしても、水星でしたか(定かでありませんが)が太陽を横切る際の現象でもって実証されたがゆえに、受け入れられた訳でした。ビッグバンにしても同様で、遠宇宙観測の結果、遠くの銀河ほど早い速度で遠ざかっていることなどの「検証」があったからこそ「現時点での人類の知的段階に見合った宇宙創出の真実」として広く認められている訳です。ビッグバン仮説は検証なしに認められている訳ではないし、もっと宇宙の観測が進めば、覆されるかもしれない「真実」な訳です。だから、19世紀科学では検証される必要があったが、20世紀になって科学は検証される必要はなくなったなどということはありません。
 また、吉野さんは自然科学と社会科学の違いにも無頓着なようです(ここでは詳しくは触れません)。科学はイデオロギーではないのです。ましてや、ドグマなどではない。

したがって、「実験による検証」という19世紀的基準を持ち出して、社会主義の実験は失敗したなどと単純に言いきれる人々は、20世紀の自然科学についても、社会科学についても、およそまったく理解していない人々であると言わざるをえません。

 このような文章を読むと、吉野さんが極めて珍奇な「科学」観を主張されるその意図は、現代の科学に検証は不要、つまり検証の結果、明らかな反証の事実が出たにも関わらず、それに囚われる必要はないんだ、と言いたいがためだったようです。吉野さんのトンデモ「論法」は、失敗した検証からの責任を逃れるため、現代では「科学」は検証が不要になった、と想定することで、ソ連崩壊への判断を放棄し、検証結果は関係ないのだから、「科学的社会主義」はまだ有効であるとする「論理」構成に他なりません。このような「反論」態度そのものが非常に非科学的な、イデオロギッシュなものであると断言できます。

 繰り返しになりますが、私が「科学的社会主義」という極めて党派的な言葉を嫌うのも、単にその言葉自体への嫌悪というだけではなく、それを無批判で受容してしまう人たちの心性のほうにあるわけです。今回の問題提起で、党派的な呼称にすぎず、マルクス本来の思想とは何の関係もない「科学的社会主義」という言葉を宗教のように「信じこむ」一部の人たちの自閉的姿勢は改めて確認できた想いがします。マルクスの思想(具体的には唯物史観)は科学ではあり得ないし、科学である必要もないのです。科学という知の体系は、吉野さんも言われていた非科学・反科学のトンデモ体系から学ぶ必要はありません。つまり、科学の体系の中で真実に向かって、前進していくことができるものです。これに反して、マルクスの思想や唯物史観は、それ以外のものの見方、人間観・社会観・歴史観から絶えず学ぶことでのみ、より多くのものを得、真実に向かって前進することができるのです。マルクスの思想を「科学」であるとデッチ挙げ、外部の存在を否定し、自閉してしまう心性こそ反省しないといけないのですが、お分かりにはなりませんか?

 個人名を冠した言葉と、個人的制約を有していない呼称の件。主旨が不明です。マルクス主義という言葉は、歴史的に肉体をもって存在したマルクス個人の思想として、歴史的な限定のもと、教条を排して使われるべきです。一部の党派的な呼称である「科学的社会主義」というのは、党派以外には使う人がいない訳ですから、より広い社会的な立場から、このような呼称はやめるべきです。マルクス主義や、レーニン主義は歴史的な用語です。こう言っただけで「教条化しがち」などという馬鹿げたことはありません。「科学的社会主義」という言葉自体が教条であり、抵抗を感じない感性は教条に縛られているのです。