多少の誤解があったようですね。20世紀の科学といえども、「検証」がいらないなどと言いたかったのではないので、その点はご理解ください。もちろん、できるだけ多様な「科学的検証」は必要です。私が批判したかったのは、「実験」で検証できない事象が多いという事実です。あるいは、「実験」では、部分的にしか「検証」できない事象が多いということです。
とくに社会的・歴史的事象に関してはそうです。20世紀における「社会主義の実験」は失敗したから、社会主義はもうナンセンス、という議論をよく耳にしますが、やはりこれは単純な社会観・歴史観にもとづいた議論であり、とうてい「科学的」とは言えないと考えます。
むしろ、そのような発想は、まさにドグマ化された「科学的社会主義」と通底するのではないでしょうか? たとえば、共産党指導部は、理論の正しさは「実践による検証」でわかると言います。しかし、まず第1に、その理論をどう解釈するかで、実践への移し方は大きく異なります。第2に、その実践がどういう条件で、どのように、誰が行なったかによって、結果が大きく異ります。第3に、その実践による結果をどう解釈するかで、結果の捉え方も大きく異なります。第4に、その実践が行なわれる歴史的条件というのはたいてい一回きりであり、不可逆的であるので、いわゆる対照実験が不可能である場合がほとんどです。にもかかわらず、あたかも、理論というものが、フラスコやビーカーで化学物質を混ぜ合わせるかのごとく、ストレートに実践に移せて、そしてその実践において単一の結論が引き出せるかのような発想に、わが党の指導部は立っているわけです。
しかし、単純な「科学観」を排するべきだということ、そしてそのような単純な「科学観」にもとづいた「科学的社会主義」は、ドグマ化しやすいこと、以上の点について、私とカワセンさんとの間では、本質的な意見の相違はないと思います。
ですから、問題は要するに呼称問題です。私は、単純でない「科学観」をふまえるなら、別に「科学的社会主義」という言葉を使ったとしても、それ自体を糾弾する気にはなれないというだけのことです。より適切な一般的呼称があればそれにこしたことはありませんが、今のところそれがないので、「科学的」ということの意味について十分な配慮があるならば、別に他人が「科学的社会主義」という言葉を使うことに、文句を言うつもりはありません。
以前書いたように、私自身は「科学的社会主義」という言葉は用いません。この問題はこれ以上やってもあまり生産的ではないと思うので、私はこれでこの議論からは手を引きます。