あなたにとっては、「他」でしかない(笑)カワセンです。
実は、あなたがまだお若いので無理もないとは思うのですが、逆に言えば、若いならもっと教条からでなく、現実から出発していただきたいものだと強く感じ、そうした願いもこめて、以下、いろいろと指摘させていただくこととします。
あなたは、この間しきりと党外の本のほうをむしろ多く読んでいる、と言われてました。しかしながら、私にはあなたの『資本論』に関する説明は、党の通俗的「解説書」の焼き直し以上のものとは感じられません。党外のものをいくら読んでいると自称されても、あなたの文章の内容には、そんなことは感じられません。『資本論』の物神化がひどすぎます。いったい、『資本論』以降、経済学の進歩はなかったのでしょうか? 特に、20世紀において経済学は『資本論』から全然発展してないのでしょうか? 20世紀最大の経済学者ケインズはどうなのでしょう? ケインズの経済理論は、実践のうえでも大きな成果を挙げていますが、あれは「ブルジョワ経済学」だから関係ないのですか? シュンペーターは、ハイエクはどうでしょうか? 経済学一般について、ただご存知ないだけなのか、あるいは党派的なゆえに無視されているのか、いったいどちらなのでしょう?
『資本論』の解説であれこれ論じ合うのは消耗ですので、こちらからは行いませんが、搾取の理論にしたところが、数々の反論が今世紀には一貫して出されていたこと(たとえば、マックス・ヴェーバー)をどのように考えますか?
また、先行者の業績に学ぶ、ということを知ってもらいたいです。一般に先行者の業績、そこで出された議論を支持する・しないは別として、事実として知っておく必要はあるのです。具体的に言うと、J.D.さんの『資本論』解説では、「私的」と「個人的」がまったく安易に同じ意味で使われています。
生産は社会的であるのに取得が個人的であるのが、資本主義の根本矛盾なのです。この矛盾を解決するためには生産手段の社会化(=生産手段の私的所有の廃止)をすればよいのです。
しかしながら、これは、平田清明氏の高名な著作『市民社会と社会主義』(岩波書店・1969年)での問題提起(ヨーロッパにおいては、私人と個人とは区別されるので、マルクスの主張「私的所有の廃止」というのは、実は「個人的所有の再建」と同義なのだ、とする)が踏まえられていない。このことは、あなたも購入したとご報告いただいた「アエラムック マルクスがわかる。」(朝日新聞社・1999年)中の論考でも(どうも平田氏のパクリのようですが)説明されているので、よく読んでください。
また、これは揚げ足取りのようですが、単純化について。あなたは、ほかの掲示板では「あまりに単純化して考えない方がいい」とか言われてますね。いったい、どちらなんですか、単純化したほうがいいのか、しないほうがいいのか?(笑)
科学論について。
科学は事物・事象の構造を把握しようと努め、さまざまな仮説を立てていきます
仮説を立てること自体が、科学の目的ではありません。あくまでも、仮説を実験や各種データの分析でもって検証し、自然の法則性を発見すること、その過程でさまざまな知見を得ること、それらが科学の目的なのです。
「すべてを疑え」というのがマルクスの学問の基本理念でした。マルクス自身を疑うというのが、現代でも常識のはずです。マルクスの原理論の通俗的蒸し返しや、教科書丸写しを言われても、こちらは対応のしようがないのです。
レーニンについても触れられていました。その後の多くの批判でも明らかなように、レーニンの帝国主義論は、レーニンの革命戦略に沿って出された政治的文書であり、学的著作ではありません。国家の一時代における政策にすぎない「帝国主義」を国家実体であるかのようにしてしまった点が最大の誤解だった訳ですが、政策としての帝国主義なら、歴史上はすでに産業資本主義段階からあったのであって、何も独占段階に固有のものではありません。また、レーニンの帝国主義論では市場の分析や、国家を支える政治システムの考察などが追求されていません。
ここではこれ以上、レーニン自身の帝国主義論への批判は省きますが、たとえば、軍備を他国に頼る米国を「帝国主義」というのも滑稽な限りで、日本の、米国への「従属性」を指摘しながら(ちなみに、私はこのような従属性を実体化した論も反マルクス的でしかないと考えますが)、「従属帝国主義」なるチンケな「概念」で説明しようとするのも、それに輪をかけた滑稽ぶりだと考えます。どちらも、レーニンの帝国主義概念からさえ外れた珍奇な代物で論外の「国家論」です。カウツキーだったかの「超帝国主義」概念のほうが(レーニンは批判してますが)、その後の世界史の展開をよく説明しているように感じてます。
以上、忌憚なく申し上げました。「他」からの余計な批判で、大変失礼しました。