まずはJDさんへ
マルクス主義(「科学的社会主義」)をめぐって何本かの投稿のやり取りを拝見しました。私はこの討論に直接参加するつもりはありません。私はかつては社会科学を専攻した学生でしたが、明けても暮れても学生運動に没頭し、あまり勉強熱心な学生ではありませんでしたし、マルクス主義の創始者(便宜上レーニンも含めます)たちの著作もそれほどたくさん読んでいるわけでもないし、東西の古典についてもそれほど知っているわけではありませんからです。わずかな時間を使っていろいろ読んでいるところです。
JDさんの投稿をめぐっていろいろな投稿がありますが、これらの投稿に対して批判するつもりはまったくありません。今まで通り討論を続けられますことを期待しています。私はここではJDさんの投稿を読んだ感想とあわせていくつかの問題について私の意見を書きます。
私は、現在の日本共産党指導部に対する批判を持っていながらも、日本共産党が革新勢力として、左翼として日本の現代政治で果たしている貴重な役割を正当に評価しています。しかし、私たちは社会主義社会をめざす革命のために党に入ったのであって、少なくとも私は部分的改良のみに収斂するような政治活動に生涯を捧げるつもりはありません。この点では現在の日本共産党指導部の進路には大きな危惧を抱いています。
あなたの<マルクス主義について1999/10/5>という最初の投稿を読んで、私は若い学生党員の中にもまだこういう人がいるのだということを認識しました。あなたの言葉を拝借しますが、私も「ひょっとしたら共産党も何とかなるかもしれない」と思いました。
(語源的な問題を別にして、「科学的社会主義」という用語は日本共産党は「マルクス・レーニン主義」という用語に代えて使い始めました。その意味ではこれは党派的な用語かもしれません。呼称にあまりこだわるつもりはありませんが、とりあえず私はここではマルクス主義と呼ぶことにします。日本共産党はこのほかにも「暴力」を「強力」に、「独裁」を「執権」に変更しましたが、首をかしげざるを得ないものもあります。)
この投稿の中で、あなたはマルクス主義の創始者たちの理論や思想をどのように学ぶかという点について自身の考えを述べています。「教条」を尊重しながらも実践の中で検証すると述べていますので、私は基本的にはそれでいいと思います。あなたにはあなたの学び方があります。
マルクス主義は破産したか
以下はここしばらく続いているテーマに関連する私の感想的意見です。
マルクスやエンゲルスの理論の中には、個別科学が発展した今日においてはもはや通用しないものもあります。たとえば古代史に関しては「奴隷制」が世界史を区分する一つのカテゴリーとしては成り立ち得ないことなどは歴史学の証明するところです。ただし、マルクス自身は「アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式」(「経済学批判序言」全集第3巻7頁)と述べているだけであり、「原始共産制・奴隷制・封建制・資本主義社会・社会主義社会」という時代区分論はマルクスのものではありません。また、エンゲルスの「家族、私有財産および国家の起源」についても、よりどころとしたモルガンの学説が文化人類学の発展によって、現代的な批判にたえられるものではなくなってしまったことから、その内容はある意味で「時代遅れなもの」となってしまったようです。史的唯物論の分野でいえば特に考古学がめざましく発展したことによって、マルクス、エンゲルスの著作の内容においては、部分的に現代では通用しないものがあります。さらにマルクスがアジアについて述べた部分(土地の共同所有など)には歴史学者から批判され、肯定され得ないものもあります。これらはおもに彼らがおかれた時代的、地理的な制約によるものが大きいようです。
しかし、「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する」(前掲書6頁)という思想、簡単にいえば、「経済的諸関係が社会発展の規定的要因である」という思想こそが史的唯物論の基本命題であり魂でしょう。科学の発展によって、部分的な個々の命題が否定されることはあり得るでしょうが、この魂は現代においてなお有効であり否定されるべきものではありません。その理論、その思想の「魂・精髄をつかむ」ことこそが重要だと思います。もし、マルクス主義の破産を主張するならば、マルクス主義の政治理論、経済学、哲学の精髄を批判すべきです。今から約150年前といえば、高野長英が自殺(1850年)した時代です。日本でいえば幕末にあたります。誰でも時代的な制約を超えることはできません。
社会主義は破産したか
次に、もう一つの論争のテーマとなったソ連の崩壊が社会主義の破産を意味するのかという点について私の考えを述べます。事実としてソ連は崩壊したのですから、とりあえずはソ連社会主義はその命脈を終えたとするよりありません。(社会主義に関する私の考えについてはすでに投稿したものがありますので、<社会主義を考える(1)(2)>を参照してください。)
私はかつてのソ連や東欧諸国が「社会主義とは無縁のもの」であったとは考えていませんが、現在の日本共産党指導部も、マルクス主義を標榜するいろいろな党派もソ連を社会主義国であったと認めていない傾向が支配的であり、ロシア革命を社会主義革命ではなかったとする見方(これを日本共産党の見解だと断定しているわけではありません)もあります。私のような考えはどうも少数派のようです。
これらの見解をひとまとめにすると誤解を生ずるおそれがありますので、私の意見として書きますが、社会主義であることの(必要条件として)最も根本的な指標は「私的所有の廃絶、生産手段の国有化(公有化)」であるというのが私の見解です。このことは基本的にはロシア革命において達成されていますからロシア革命は「広い意味」で社会主義革命と規定してよいと思います。ロシア革命における「目標」が「パンと平和と民主主義」という必ずしも社会主義的なものでなかったにしても、ブルジョアジーによる臨時政府ではこの目標――たとえば「停戦」というたった一つをとっても実現できなかった――を達成することができず、労働者と貧農という社会の最下層を構成する民衆のエネルギーを動員することなくして達成できなかったのですから、権力を掌握した彼らが社会主義社会の建設に向けて歩みを進めたというのは歴史的必然であったと思います。
資本主義の発展を通じて社会主義へと移行していくというのがマルクス主義の基本的立場です。また、革命の主体について考えると、ロシアではペトログラードやモスクワなどの大都市では資本主義が発達しており、そこにはじゅうぶんな労働者階級が形成されていましたが、人口の圧倒的多数を占める農民との同盟なくして達成され得なかった革命であったこともまた確かなことでしょう。これらのことから、ロシア革命は労農革命とかプロレタリア革命とかの性格づけをすることによって、社会主義革命ではなかったとする見解もあります。しかし、革命主体が誰であったかということはその革命の性格を規定する重要な要因ではありますが、これが決定的なものではありません。
ソ連を中心に述べますが、かつての社会主義国において「私的所有の廃絶、生産手段の国有化(公有化)」のもとに、民衆の生活の向上、教育、医療などの分野で社会主義社会と呼ぶにふさわしい人類史的な前進がありました。その一方で70年にわたるソ連社会主義の歴史にはあまりにも悲しい否定的な現象があったことも私は認めます。それでも私はソ連は社会主義ではなかったというつもりはありませんし、壮大な社会主義の実験を否定的にみるつもりもありません。
この否定的な現象を理論的に解明することこそが現代のマルクス主義者に課せられた課題なのではないでしょうか。否定的現象のすべての原因をスターリンに求めればことは簡単でしょうが、スターリン時代にもソ連人民はナチスドイツと戦い、膨大な被害を被りながらも「大祖国戦争」を勝利に導きファシズムを打倒する世界人民の戦いの先頭に立ち、社会主義の建設を進めたこともまた事実です。それは何よりも社会主義ソ連を守るために闘ったソ連人民の英雄的な業績として評価されるべきでしょう。スターリニズムというひとことで簡単に片づけてしまわないで、ソ連の歴史を具体的に検証することが必要です。
もう少し長い視野で歴史を見る
今日の資本主義社会を形成する端緒となった近代市民革命は、通常、イギリスの清教徒革命(1642年)と名誉革命(1688年)、アメリカの独立(戦争)革命(1775年)、フランス革命(1789年)を含んでいます。清教徒革命によって王政が廃止され共和制が始まりましたがまもなく王政が復活し、続く名誉革命でも王政は継続しました。イギリスにおける産業革命は1765年ごろから始まっています。清教徒革命からじつに1世紀以上遅れています。この間には、一見すると逆行しているように見える事象が起こることがあるけれども、資本主義が着実に発達し、ブルジョア社会にふさわしい政治体制も完成してきました。
社会主義革命と近代市民革命(ブルジョア革命)とを単純に比較してよいものかどうかはわかりませんが、私がいいたいことは、歴史のある時期においては方向性を見失いそうになる事象が起きることがあるけれども、長い視野で全体として歴史を見れば着実に進歩しており、「社会発展史」という視点が正しいという結論に達するのではないかと思うのです。このような観点からソ連崩壊をみたときに、ソ連や東欧諸国の崩壊をもって社会主義の理想やマルクス主義の理論が破産したという結論に到達してよいのだろうか、という疑問があります。
私はこれらの国々の社会体制が崩壊したという事実がマルクス主義の理論や社会主義の破産を意味するとは考えていません。しかし、このことを理論的に解明することは大変な作業であり、私は自分だけが個人的に納得する範囲のことを研究する程度のことはできても、学問的レベルでの理論的作業ができるとは思っていません。専門的な分野の研究者の努力に期待するところが大ですが、研究者とは違う次元で、事実を明らかにし、事実に即して、できるだけ合理的な論証を進めて試行錯誤をしながらも、たとえば、さざ波投稿者の間で討論をすることも可能だと思います。「論語」に「学んで思わざれば則ち罔く、思うて学はざれば則ち殆し」ということばがあります。そのためには、まずかつての社会主義国の実態を知らねばなりません。私たちの情報源は既存のジャーナリズムや書物に頼ることとなりますが、質量ともにそれほど豊かとはいえません。私たちが個人として知りうる情報には限りがあります。私たちはいまインターネットを媒介として討論することができます。この討論には発信者の個人情報を知りえないというやや危なっかしい面もありますが、誰でも手軽に参加できるという利点もあります。それぞれの人が根拠となる出典があればそれを示して、その意見を投稿されれば社会主義に関する討論にもなにがしかの前進が見られるようになると思います。これは理論上の問題ですから、日本共産党の指導部に対する評価や姿勢には直接的には関係のないことであり、党籍のあるなしにかかわらず、だれでも参加できることと思います。できるだけたくさんの読者の皆さんが参加されることを期待します。また、現在、日本共産党員のなかで最も厚い層をなしている40歳代、50歳代の人たちの中には専門的研究者として活躍している人もいるはずです。専門的な研究をしている人が、もしこの「さざ波」をごらんになったならば、アドバイスを兼ねてぜひ投稿されますように。かつてライトブルーの旗の下にスクラムを組んだ仲間の1人としてお願いします。