「他」と入れる必要はないので、やめませんか? どんな場合でも特定の人の書き込みを対象にして書く訳で、その人のお名前だけを入れておけばいいと思いますけどね。でも、論議って、難しいですね。たとえば、読んでどこかおかしい、とは感じても、結局自分の知識・力量には乏しいものがありますから、反論するまではなかなかいかない。あるいは、反論できても、不充分なものにしかならない。もちろん、知識と力量の範囲で「おかしい」とは感じない場合もある。そもそも関心のない話題には対応もできない。
さて、あなたの「勉強」の方法論ですが、少し相対主義的で遺憾です。「常識に踏まえて」ということは、いつでもどこでも言える、基本的な勉強の姿勢ではないのでしょうか? 自分勝手にやっていていい、というものではないでしょう。一定の知らなければいけない基礎知識というものはあると思います。「すべてを疑え」については、条件も何もありません。いまの自分の知性段階で、常に疑っていけばいいので、それこそがマルクスの科学方法論だった、と私は考えます。疑う姿勢をもちなさい、ということです。そうすることで、前進する、ということなのでしょう。
なお「武谷三男の技術論をまったく踏まえていない科学論」とのこと。これはどこがどう、と具体的に言ってもらわないと反論のしようがありません。「武谷技術論の反駁」を、などと言われてますが、私は全知全能ではありません。昔少しは読みましたが、いまはほとんど覚えていません。(ちなみに、私は吉野さんと科学論についてはやっていても、技術論はやっていない)これは「どの人物を評価するのか、という問題」ではありません。私はあなたが「私的と個的」の違いを無視されているので、平田氏の有名な提起をよくご存じないのかな、と思って指摘した訳です。あの記述部分に関して、平田氏の提起に踏まえないでできるのか、という問題につらなってくるのです(これは、平田氏の提起に賛成するか反対するかは別の話)。それを「お前もこの人について言ってないじゃないか」などと言われるのは、ただの「話の逸らし」で、あまり生産的ではありません。
「党の教科書ではありませんよ(私の教科書です)」と言われる、その典拠を明らかにしたほうが話は早くありませんか? 一般の学会では、先行者の業績について、その著者名・論文名・著作名を明らかにしたうえで、他人の見解と区別した自分の見解を出す訳です。ネットでの論議でも、自分の見解がどこから出てきたのか(もちろん、細部にわたって全部、という訳にはいかないでしょうけど。私もやってないし)、明らかにしたほうが話が早いと思います。それで、何か支障がありますか? 私の場合、自分で「教科書」を書けるほどの力はないので、いつも人様の「教科書」を使ってます。