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「科学的社会主義」討論欄

吉野傍さんの「疑問と質問」に可能な限り答える

1999/11/12 カワセン、40代、自由業

「あれこれの権威にそのまま寄りかかって、非難するのみ」の件。
 これについては、マルクス(あるいは、その解釈を独占すると称する党)の権威に寄りすがっているように(私には)見えたJ.D.さんへの批判の文脈でもって、マルクス以降の経済学の例を挙げただけである旨、すでに言及済み。

「『資本論』のどこが問題なのか説明しようとしない」の件。
 ありとあらゆる問題について、この場に参加し発言しようとするすべての人がこの場で論じなければ(あるいは、論じようとしなければ)発言の資格がない、などということは言えない。
 吉野傍さん自身が「科学的社会主義」問題は「生産的でないから」と勝手な理由をつけて論じないのであって、自分は論じなくてもかまわないが、カワセンは論じるべきだ、という「論法」は成り立たない。

「私」的と「個(人)」的の区別の件。
 これも同様で、平田氏の名前を挙げて、本のタイトルを紹介したなら、その解釈まで一切合財をその人が自分の責任でしなければ怠慢であり、書く資格がない、などと言うことはない。そんなことをやっていたら、誰一人としてここには書けなくなってしまおう。私は、J.D.さんが平田氏の本を読んでないらしいので指摘しただけのこと。なお、平田氏のメインの主張は、「個体的所有の再建」を目指すのがマルクスの共産主義社会である、とするところにある。しかし、その前提としてヨーロッパにおける所有概念の問題や、「私」と「個」の明白な違いの問題を紹介しているのである。ヨーロッパとの比較でもって、日本では「私」と「個」が混同されている点、つまりは日本には「社会」が存在していない、といった点の指摘などは文化論的にも興味深い。

帝国主義論。
 私に「説明なき断言と権威への寄りかかり」は一切ない。「説明不足」はあるかもしれないが、これについては前述したとおり。「権威へのよりかかり」はむしろ吉野傍さんのほうであろう(レーニンという権威を批判しているのはほかならぬ私のほう)。コミンテルン流の誤った世界認識から、いい加減脱してもらいたいものだ。「帝国主義」を「国家の一時代における政策にすぎない」と断言できる理由。レーニンは、自由産業段階の資本主義から、次第に独占段階の資本主義へと移り、そこでは金融資本が支配的となり、海外に植民地を求め進出、次第にその分割をめぐって争うことになる、とした。これがレーニンの帝国主義論だ(もちろん、簡略すぎる、とまた難じるだろうが、長ければいいという訳でもないので、この程度にしておく。違うと言うなら、具体的に指摘されるようお願いしたい)。ところが、歴史上の「帝国主義」というのは、スペインやポルトガルの例でも分かるように、自由産業段階の資本主義において、すでに政策的にはおこなわれていたものであり、独占段階の資本主義に固有のものではなかった。しかも、レーニンによると帝国主義は資本主義の最高かつ最後の段階で、あとは「帝国主義戦争を内乱へ」と転化させることで起こる世界革命によって、社会主義社会へと移っていく、とした。ところが事実として世界の歴史ではそうはならず、植民地は独立し、新たに国民国家となって独立する一方、資本主義はその後、ケインズ流の福祉国家体制へと移行し、現在では新自由主義と新社会民主主義との新たな攻めぎあいの時代に入っている。レーニンの予測(というか、願望)が当たらなかった根拠として、「市場の分析や、国家を支える政治システムの考察など」の未追求を挙げても、それほど的外れではない。

国家を超える政治システムのこと。
 私見によれば、すでに19世紀末に、国家間の問題を戦争という暴力でなく、「法の支配」でもって確立していくことを目指す傾向が生まれたのではないか。赤十字などが誕生したのもこの時期だし、もちろん法制史などできちんと押さえないといけないことなのだが、世界史の最先端においては、すでに19世紀末に国際法的な大きな流れが生まれてきていたように思う。レーニンは、残念ながらそうしたこと一切を把握できなかった訳だ。ちなみに、私は第二次大戦はもとより、第一次大戦も厳密(レーニンの言うような意味での)には帝国主義戦争ではなかった、また「帝国主義国」というのも歴史上存在しなかった、と考える。(ここはまだ勉強中の課題なので、突込みを入れられても困る。一切合財説明できなければ、一言も言うな、ということにはなされぬよう、希望する)

「軍備を他国に頼る米国を『帝国主義』というのも滑稽な限り」の件。
 これは大きな書き間違いで訂正、「戦費」を他国に頼る・・・、だ。「軍備」としても、ここで問題になるのは「同盟」の問題であって、吉野傍さんは「帝国主義軍事同盟としてごく普通の現象」とか言われるが、少なくともレーニンの帝国主義論には帝国主義国同士が同盟を結ぶ、などということは書かれてなかったはずである。吉野傍さんの「論法」はいつもそうなのだが、勝手に解釈を歪めてしまい、自分の結論に何とかして結びつけようとするさまが露骨である。自分の主張を正当化するために、従来の解釈変えをしてしまえば、そりゃ自分の主張はいつでも正しい正論になってしまおう。問題なのは、相手も認識している解釈に踏まえたうえで、自分の意見を述べることだろう。だから、レーニンの帝国主義論だけに依拠するのでなく、その後の歴史の展開でもって新しい知見を加えた上での「新帝国主義論」なんだ、と言うなら、それはレーニンのそれとはどこがどう違うのか、を言わないといけないし、それをしも「帝国主義」の名で呼ぶのが妥当かどうか、も問われねばならないだろう。つまり、レーニンの帝国主義論に沿って(規準として)、いま私は言っているのであって、「ほか」の規準を出すなら、その規準自体の説明をまずもって吉野傍さんはしないといけないのだ。
 なお、戦費という重要な軍事費を「他国に頼る帝国主義国」などという存在は、少なくともレーニンの帝国主義論ではおよそ想定されていなかったはずである(似た意味のことで、「従属性」も同様)。私のこれに関する批判に反論するなら、「レーニン帝国主義論のここに「他国に頼る帝国主義」の規定があるよ」「従属性についてもここだよ」と書けば済むはずである。にもかかわらず(もちろん、そんな規定はどこにもないのだから、当たり前ではあるが)、「「滑稽ぶり」だの「チンケ」だの、ずいぶん嘲笑的お言葉がお好きなようですね」と、まず話を表層的なところから始めないといけないのは、それこそ吉野傍さんの品性の問題であろう。普通に素直に読めば、レーニンの帝国主義像は「金融資本をメインとする独占資本によって構成されている独立した国家」というところに落ちつくのであって、戦争をやる度に、他国からお金を援助してもらったりする国家や、政治も経済もかつて占領されていた国の言うがままに「従属」しているとかされる国家がそれに当たらないのは、常識的に判断できる。それ以外の「読み」としては、「いや、レーニン以後、世界情勢が変わったから」ということしかないはずで、私が聞きたい・読みたいのは、どこがどう変わったのか? なのだ。

「このような」に該当する部分の件。
 そのすぐ前の「日本の、米国への「従属性」を指摘」にかかるのは日本語が読めれば誰しも分かるはず。マルクスの思考は、関係性を基本に押さえるところにあるのであって、その関係を実体化してしまうのが観念論や、マルクス以前の唯物論であった。「従属性を実体化」という意味は、確かに日本政府の方針には米国政府の諸方針への「従属」性が見られるものの、それは個々の政策判断において、自国の国益を彼らなりに主体的に考察したうえの選択の結果としておこなわれた政治の一貫として捉えられるべきものだ。それを「常に変わらぬ、一つの実体をもったナニモノか」としてしまうのは、上で触れたマルクスの思考の特長に反することだから、「反マルクス的」だと書いたのである。
 吉野傍さんがここに登場したのは、私の知るかぎり「科学についての19世紀的認識」(10/21)が最初であった。そのときもすでに「横レス」と自認されていたが、私などが問題にした「科学的社会主義」批判に、直接的には応えず、「お前もマルクス主義という言葉を使っているじゃないか」と話を逸らして、逆「批判」するという「論法」を使っていた。こういう「論法」は非生産的であるから、できればやめにしてもらいたい。「何を言ってない」「かにについて触れていない」、そんなことを言っていればキリがない。すでに「言われている」ことの内容で、「そこの事実は違う」とか、「そこをそう解釈するのはおかしい」とか、言われるべきであろう。自分に興味がない話題なら、その掲示板に書かなければいいだけのことだ。これは先に投稿した者の特権かもしれないが、論議は「書かれていること」についておこなわれるべきであって、「書かれてないこと」について「書かれてない点」を論難するような方向性でもっておこなわれるべきではない、と考える。

※以上、「です・ます」調でなく、「である・だ」調にしましたが、別に他意はありません。