前回に引き続き、「個人的所有の再建」をめぐる論争について紹介します。
前回の投稿で引用した、「否定の否定」の結果として「個人的所有が再建される」という引用文の解釈をめぐって、エンゲルスをはじめとする伝統的な解釈は、「個人的所有」の対象となるのはあくまでも「消費手段」だけであって、生産手段は「社会的所有」となるというものでした。
以上の伝統的解釈に対する批判派の主張する論点を簡単にまとめますと、以下のようになります。
まず第1に、あの節でマルクスは一貫して生産手段の所有形態のことを述べているのに、「否定の否定」の部分で突然、消費手段の所有形態が出てくるのはおかしい。最初の段階が、労働者個人による生産手段の個人的な私的所有であり、次の段階が、こうした「個人的な私的所有」を否定した「資本主義的な私的所有」。この場合の「資本主義的な私的所有」とは、生産手段が生産者の所有ではなく、資本家の私的所有となり、生産者は逆に生産手段から切り離され、無所有のプロレタリアとなる。第1の段階も、その否定である第2の段階も、ともに問題にされているのは生産手段の所有形態。したがって、第3の段階、すなわち「否定の否定」たる、土地や生産手段の「共同占有」にもとづく「個人的所有の再建」の対象もまた生産手段でないと、全体的な流れとして辻褄が合わない。
第2に、消費手段の個人的所有なら、資本主義の段階でも労働者は自分の消費手段ぐらい個人的に所有しているので、「個人的所有の再建」という言葉は使えないはずである。「再建」というからには資本主義時代に否定されていなければならず、消費手段の個人的所有は資本主義時代でも否定されていないので、第3段階で再建される個人的所有の対象を消費手段とみなすのは、おかしい。
第3に、たかだか消費手段の個人的所有を確立することが、歴史的な課題であると考えるのも、理屈に合わない。マルクスはあの節で、資本主義を否定することで実現される社会の最も重要な課題を「否定の否定」として提示したはずであり、その主たる中身が「消費手段の個人的所有」程度というのは、羊頭狗肉である。
第4に、資本主義時代においてさえ消費手段の多くの部分はむしろ社会的なものであり、個人が直接所有するものではない。たとえば、公営住宅や公共の公園や公共のスポーツ施設などは、社会的な消費手段である。むしろ、社会主義の時代においては、このような社会的消費手段がいっそう発展するはずではないのか。
以上が、マルクスのあの文章を「消費手段の個人的所有」と解釈することに対する異論です。論者によっては他の論点を出したり、異なった角度からの批判もされていますが、まあだいたいの論点は以上の4つとみなしてもいいと思います。
しかしより重要な論点は、あのマルクスの文章を「生産手段の個人的所有」と解釈した場合に、「生産手段の社会的所有」というもう一つの命題とどのように両立するのか、そして、あえて「生産手段の個人的所有の再建」ということが、どのような積極的意味を持っているのか、ということです。
続きは次の投稿で。