では次に、いかなる意味で、個人的所有と社会的所有とが両立するのかを考えてみましょう。この論証は、論者によってさまざまですが、私なりに理解したところでは、次のような比喩が理解の手がかりになるような気がします。
たとえば、10人の仲間がいて、全員が均等にお金を出し合って、何らかのものを買ったとします。この物品は当然、10人の共同所有物です。しかし、お金を出し合った個々人は、10分の1づつの所有権を保持しており、この面から見るなら、全体の一分子として10分の1づつの個人的所有も成立していると見ることができます。この物品のどこか物質的一部を排他的に所有しているわけではなく、あくまでも全体の観念的一分子として個人的所有も保持されています。
同じような関係が、社会主義における社会的所有と個人的所有との関係にも言えます。この場合は、ある特定の集団ではなく、社会全体(あるいは、生産者全体)が共同で所有し、かつ、個々人はお金を出し合ったのではなく、労働を出し合ったという違いがありますが、しかしそれでも、自分の出した労働の観念的一分子として個々人が生産手段に対する個人的所有権を有していると考えることができます。
この所有は、自立した私人による独占的所有を意味する私的所有ではなく、また、他の諸個人と分離して存在する小経営の個人的所有でもなく、他の諸個人と連合した自由な諸個人による個人的所有です。また、その生産手段の帰属のあり方(占有)は、個人的でもなければ、私的でもなく、共同的です(共同占有)。つまりは、『資本論』でいう「生産手段の共同占有にもとづく個人的所有の再建」が成立していると見ることができます。
社会的所有というだけでなく、このような個人的所有の再建を強調することにどのような意義があるのかを、とくにこれまでの「社会主義」の経験、とりわけそこでの「社会的所有」すなわち「国家的所有」の経験との関係で考えてみましょう。
まず、個人的所有のモメントを重視することは、社会主義においては、「社会」というものが諸個人から自立した疎遠なものとして存在するのではなく、連合した諸個人の共同のあり方そのものであることを明確化することができます。たとえ「社会的所有」であったとしても、その所有の主体たる「社会」が諸個人から自立した疎遠な存在であるならば、その社会的所有も諸個人から自立し、疎遠なものとなってしまうでしょう。そして、その社会的所有の具体的で直接的な管理者として、今度は、社会全体を代表すると称する「国家」あるいは「国家官僚」が登場することになるでしょう。こうして、社会を構成する諸個人全員のものであるべき社会的所有が、「国家所有」として国家官僚の占有物と化してしまうことになります。まさに、これまで存在した「社会主義」における「社会的所有」こそ、個々人から自立し、国家官僚のコントロール下に置かれた「国家所有」であったわけです。
このことと深く関連していますが、個人的所有のモメントを重視することは、生産手段(労働手段プラス原材料)に対する諸個人の関心と関与の重要性を強調することになります。私的所有が規範になっている社会(資本主義社会)では、自分の私的所有物ではないものに対する諸個人の関心は概して低く、公共物、公共財を大切に使うという発想が弱くなっています。同じような現象は、実は「社会主義」諸国にもあって、諸個人から自立した「社会的所有」たる労働手段や原材料に対する諸個人の関心は低く、無駄に使ったり、メンテナンスをおろそかにしたり、浪費したり、といった傾向が見られました。資本主義社会においては、それらの労働手段や原材料は資本家の私的所有物であり、かつ競争の強制法則が働くので、資本家が労働者に強制して大切に使わさせ、できるだけ節約させます。しかし逆に、資本主義社会では、儲けになるならどんな無駄でも資本家はいとわないし、社会全体のものであるべき土地や貴重な資源さえも私的所有物として大量に浪費され独占され、また、真の公共財である空気や海や生態系が汚染され、破壊されることになります。本来の社会主義社会では、このような私的所有と公共的なものとの対立が止揚されて、社会的所有物でありかつ個々人の個人的所有でもあるという関係が確立されることで、生産手段に対する、あるいは社会的消費手段に対する諸個人の関心と関与が強化され、他方で、土地や資源や環境に対する社会的配慮が重視されることになります。
さらに、それだけでなく、個人的所有のモメントを重視することは、生産のあり方に対する個々の労働者の関心と関与も強めることになります。一部の国家官僚が推進する官僚的な計画にもとづく官僚的生産ではなく、個々人の意見と創意を徹底的に重視した民主的計画経済と民主的共同生産というものが、そこでは重視されることになるわけです。つまりこれが労働者民主主義の具体的なあり方となるわけです。
このように見てくると、「社会的所有」というだけではなく、なぜマルクスが「個人的所有の再建」ということを重視したのかが明らかになってきます。それはまさに、マルクスが社会主義・共産主義というものを、諸個人から自立した「社会」なるものの支配としてではなく(国家社会主義)、「諸個人の自由な連合体」として規定したことの直接的な反映であり、その帰結ないし前提と見ることができます。この「諸個人の自由な連合体」を所有面から支えるのが、社会的所有の一モメントとしての個人的所有なわけです。
次の投稿では、逆に、以上のような解釈に対する、「個人的所有の再建の対象はやっぱり消費手段だ」と考える論者の最新の反論を紹介して、いっそう議論を深めたいと思います。