11月27日付、吉野傍さんの「『個人的所有の再建』命題をめぐる論争(3)」に対して、ちょっと質問です。
「本来の社会主義社会では、このような私的所有と公共的なものとの対立が止揚されて、社会的所有物でありかつ個々人の個人的所有でもあるという関係が確立されることで、生産手段に対する、あるいは社会的消費手段に対する諸個人の関心と関与が強化され、他方で、土地や資源や環境に対する社会的配慮が重視されることになります」。
最近のゴミ問題への関心の高まりは、誰もが、もはやゴミ問題は他人事だという白けた考え方を取らなくなった時代に来たことを示しています。このような事象に対して、ここで言われている「本来の社会主義社会」の萌芽を感じるのは飛躍には違いないでしょうが、通じるものは若干ながらあるのではないかと思います。
ただ、社会に起きている現象が「他人事ではない」とする感覚が所有関係に関する意識にまで達するのは、さすがに一筋縄ではいかないでしょう。「生産手段は個人的な所有物でもあるのだよ」といったお題目さえ信じればいいという話ではないし、生産手段が個人的な所有物であるということは何かしらの物理的な手段(法律など)が存在しない限り、観念論に終わってしまうのではないかと思います。
「私的所有と公共的なものとの対立が止揚」はどのようにして生じる、または可能であると、お考えでしょうか?
史的唯物論の見地からすれば、「生産手段が私的所有であるかぎり公共的なものとの対立が避けられない、生産手段が私的所有であるかぎり公共的なものの発展の桎梏になる」ことが、ゴミ問題のように誰もが自分のこととして認識できるほどまでに、その矛盾を物理的に露呈する段階に到達することが、本来の社会主義社会に移行する条件となるはずです。理論的にはこんな矛盾=資本主義的所有の矛盾はとっくに生じているのですが、しかしこの理論的な認識は、ゴミ問題のように、誰もが自分のこととして納得できるまでには達していない。「生産手段が私的所有だから社会にいろいろ不都合なことが起こっているのだ」という認識は、悲しいかな、現実には一部の人間のイデオロギーだという段階にとどまっています。
さらに厄介なことには、生産手段を「社会所有した」と称した社会主義国が軒並み崩壊したこと。これに関しては、「一部の国家官僚が推進する官僚的な計画にもとづく官僚的生産ではなく、個々人の意見と創意を徹底的に重視した民主的計画経済と民主的共同生産というものが、そこでは重視されることになるわけです」がその回答になっているかと思いますが、これまたお題目を唱えただけに過ぎないと感じます。「個々人の意見と創意を徹底的に重視」するためには何が必要か、というのがないからです。「なぜソ連が国家社会主義になったのか?」という理由を対置し、「そうならない=ソ連の国家社会主義化、ためにはこうすることが必要だ」というところを明確に示すことがない限り、レーニンが革命前に描いていた生産手段の労働者管理の空想を繰り返すに過ぎないと思われます。
資本家も馬鹿じゃないから、最近では環境問題にも敏感に反応しています。環境問題に無関心な企業はその存立自体さえ不可能になってきているからです。自動車もそのうち毒ガスを撒き散らさなくなるでしょう。すでにトラックはディーゼルエンジンから脱皮しつつあり、排気ガスならぬ排水車の研究に各社しのぎを削っています。
「個人的所有のモメントを重視することは、生産のあり方に対する個々の労働者の関心と関与も強めることになります」。
これって逆じゃないかなと思いました。「生産のあり方に対する個々の労働者の関心と関与が強まる中で、生産手段に対する個人的所有のモメントを重視する傾向が生まれる」。この方が私にはピンときます。毎日鍬や鋤で耕しているこの土地がなんでおいらのものじゃないんだ?という農民の思いは、けっして最初に所有関係の意識ありきではないのではないでしょうか? どでかい工場で働いている人間が、その工場を「人の物だ」ではなく「自分も所有している物だ」と感じるには、よほどその場の生産のあり方に対して個々の労働者の関心と関与が強まっていなければならない。しかし、毎日生産される生産物に対して、それが社会的にどのような意味を持ち、どのように消費され、社会にどんな影響をもたらしているのか常に関心を抱きながら生産に従事するというのは理想に過ぎず、売れる売れないへの関心がもっとも直接的であり、生活に直結し、意識を左右する要因でしょう。
生産物の社会的な影響全般を考える仕事は、かの国々では官僚の手に委ねられました。この分野において労働者管理を実現することは現実には不可能でした。ぶっちゃけて言えば、生産物の社会的な影響全般を考える仕事は「他人の仕事だ」ということだったと思います。そしてこの意識は今後もさほど変わらないのではないかと思います。働いて金を得て食う前に、生産物の社会的な影響全般を考える仕事をも同時にする労働者は将来もおそらくいないだろうからです(意識は変わるでしょうが)。分業はけっしてなくならないのではないでしょうか? 「能力に応じて働き」は分業そのもののことだと私は理解しています。
生産手段の私的所有を廃止するというなら、では誰がその生産手段を所有するのかということを明確にしなければなりません。生産手段を社会的に所有する、社会を構成する個人の所有にするというなら、それを保証する基盤=文書が必要だと思います。どこどこの工場の設備は誰々の物であって一個人の物ではない、ということを明確に文書化する必要があろうと思います。そうでなければ生産手段は官僚の所有物と帰し、ノーメンクラツーラ支配と何ら変わりないことになります。
たとえ生産手段を諸個人が所有するというに至ったとしても、それをどのように使い、いつ廃棄し、いつ取り換えるかといった管理の問題がつきまといます。そこでは当然、それを専門職とする人間が出てくるでしょう。まさか生産手段を所有する諸個人が常に集まってこれらのことを会議で決めるわけにもいかないでしょうから。ただ、生産手段を所有する諸個人が生産手段の管理を専門とする人間に対して発言力を持つという条件が確立されれば、ノーメンクラツーラ支配とは違った様相を呈するだろうことは考えられないではありません。
「社会的所有物でありかつ個々人の個人的所有でもあるという関係が確立される」。この部分をもう少し具体的に展開していただけないでしょうか? これは何がどうソ連型と違うのか? そこを明確にしないかぎり、だったら資本主義的な所有関係の方がまだましだ、ということになってしまいます。一度崩されたアンチ資本主義的所有関係の幻想とはここが明確に違うのだと、そういうものを提示しないと観念論で終わってしまいます。