投稿する トップページ ヘルプ

「組織論・運動論」討論欄

―「科学」から空想へ―

2003/12/23 愚等虫、40代

   マルクス主義に限らず、真理に到達するためには、誤りに対する謙虚さが必要で しょう。

 人文学徒さんの仰られる、

> 土台を強調し過ぎて成り立つような「科学」によって他が見えないといった教条 主義的主張を粘り抜いた末の敗北宣言という事態とも言えよう。そしてこの重大事態 について当時の党指導部(ここでは中央委員会。これを指導する上級機関や個人の責 任、罪はさらに当然重くなるはずである。普通、集団とはそういうものではないか) は極めて重大な罪を、しかも確信犯的に犯し続けたわけだが、彼らを指弾する者は表 面に現れなかった。
 ………
 こういう推移を見ると、一体、日本共産党指導部には最高指導者が個人責任を認め るという事態、時があるのだろうかとさえ思う。ちょうど世界歴代共産党最高指導者 がほとんどそうであったように。これでは、無制限の、しかも理論政党であって理論 的に不誠実ともいうべき、あまりにも強大すぎる不条理な権力になってしまったとは 言えないだろうか。これが僕には今、恐ろしいことだと思われるのである。

ということに、ほとんど同感です。

 ただ、私の視点は、人文学徒さんと同じ事かもしれませんが、自由と民主主義の発 展、つまり、個々人の人権意識と主権者意識の発展ということに、重きを置いて考え ています。

 自由の裏には、責任があるでしょう。「民主主義」と「民衆主義」は違うでしょ う。かような事を一人一人が考えていかなければ、社会の発展はあり得ないだろう し、自治的共生社会には、近づけないであろう、と思っています。

 そのような視点から、私は、党の様々な問題と非弁証法性についての根深い病巣 を、「革命的前衛党」という組織体質と、それに伴う「警戒心」に由来するものだと 考えているわけです。

 なんでもかんでも、スターリン個人のせいにしてしまっては、スターリン批判(1 956年、ソ連共産党第20回大会)以後、約半世紀を経ても改まる事のない、現在 の日本共産党の数々の問題は、説明も出来なければ、解決もできません。
 指導者に個人的限界があることは、スーパーマン、超人ではないのですから、どん な世界、どんな時代であっても、あり得て当然です。
 それを防ぐのが、私は、民主主義の発展である、と思っています。

 原 仙作さんが仰られています、

「時代の流れを決定する要因が経済から政治へ、民主主義へ、民主主義を担う国民の 意識(運動)へと移行しつつある時代ということです。」

ということとほぼ同様の認識であろうと思います。

 この観点からすると、わが党の指導部および党官僚たちの「民主主義」は、国民意 識から全くズレており、未だに、「プロレタリア民主主義」意識を持ち、正当な批判 を「反共」攻撃と同一視し、「党を守る」ことと「党指導者たちを守る」ことの区別 もつかず、自己保身に走り、「前衛」という無意味な「エリート意識」に縋りつき、 まるで、「プロレタリア独裁」と「共産党独裁」が、事実上同一化したような事態の 再現を、21世紀のこの日本においてさえ、何の疑問も抱かずにやっている、という 感じを受けるのです。

 「これでは共産党はミニソ連だ」と題される、おれおれさんの仰られる通りだと思 うのです。

 「さざ波・トピックス(03.9.13)」における、公開討論版に対する編集部の、

 「ちょっと手厳しい表現があればすべて『誹謗中傷』条項に引っ掛けて不掲載にし ているからであろう。これが、国民にわかりやすい民主的な党を標榜している政党の 実態なのである。」

という指摘は、その通りでしょう。

 もう、25年も前に、宮本氏が、

 「われわれがいま『自由と民主主義の宣言』でいっているような、ああいう民主主 義は社会、国家にそれを実現しようとしているものであって、党のあり方とは区別さ れる」(前衛・79年1月号)

と言っていたことから、何ら進歩の影さえ見受けられないのです。

 十中総において、不十分ながら「おわび」と「自らの責任」に言及した事は、「そ れなりに」評価すべきであると思います。
 しかし、それが、どの程度の謙虚さを持っているのか、真摯な反省といえるのかと いう事が、より重要です。
 形だけの「おわび」では、結局、人も、人の心も、離れていきます。

 総選挙後の最近の世論調査では、党の支持率は「朝日」4%→2%。NHK2.4 %→1.4%などと、軒並み下がっているようです。
 因みに、社民党2%→3%、1.0%→1.6%とやや上昇。
 マスコミを通しても、「正しい。正しい。」と言い続け、指導部の交代の話は、 「一切出なかった」という中で、世間の人々は、どのように感じたでしょうか。
 私達は、赤旗等で、「おわび」した事なども知り得ますし、一応、「朝日」では、 4面に載っておりましたが、テレビ等では、そのようなことは、取り上げる価値もな いのでしょう。
 国民の目線にどれだけ近づいていると言えるのか、末端党員たちの気持ちをどこま で分かっているのか。分かろうとしているのだろうか。

 ここ「さざ波」でも、九官鳥さんが、

 「ありえないけどいま、この体質のまま共産党が政権を取ったら国民が主人公の政 権なんか出来るのかな?」

と仰っておられます。
 この想いは、私の想いと、まったく、同一です。
 はっきり言って、「出来ない」と断言します。

 そして、九官鳥さんは、

 「自分は心が決まりつつあります。おそらく仲間ではなくなると思いますが、私は やはり消耗品になりたくないのです。」

と続けておられます。

 私自身が、心に重い重石を抱いている中で、語る言葉が、見つかりません。
 ごめんなさい。

 参議院選挙の方針は、一人区(27選挙区)での候補者をどうするのか、不破氏の 「問題提起」が行われたので、今後どうなるのか、不確定要素があります。
 しかし、先の投稿で触れましたが、比例区で、現職の岩佐恵美氏、小泉親司氏、池 田幹幸氏の「候補者の任務を解く」ということと「絶対確保議席」5名+新人20名 という方針は、果たして、正しい方針と言えるのでしょうか。

 その「真意」がどうであれ、これまで、現職3名の応援、運動をしてきた党員、後 援会員、支持者の皆さんの気持ちや、新人20名を、まったく、「噛ませ犬」的存在 として捉える認識を考えると、私は、戦術としても、支持できない。

 綱領改定案では、民主主義革命を、

 「日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代 表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことが できる。」

と規定し、不破報告においては、

 「つまり、そういう形で、国の権力を、ある勢力から別の勢力の手に移すことに よって、はじめて民主的改革を全面的に実行することができるようになるわけだし、 この変革を革命と意義づける根拠もそこにあります。」

と述べています。

 不破氏は、あれこれと「理論付け」しようとしておりますが、つまり、この意味す るところは、共産党(を中心とする勢力)が、国会で多数を占めた改革であれば、 「民主主義革命」と言ってもよいということになるのでしょう。

 しかし、現在のような、わが党の「党内民主主義」の実態と、未だに、「プロレタ リア民主主義」を民主主義であると認識しているような党官僚、党職員その他の党役 員たちの存在に鑑みるに、このような、能天気な観念論をそのまま承認する訳にはい かないのです。

 人文学徒さんが、仰られるように、社会的地位が高いものほど、その責任が重いの は、当然であります。
 しかしながら、この党の指導者たちは、自分たちの誤りを認めず、規約の改定や綱 領全面改定という重要問題に関しても、他人様の「誤解」という恐ろしい責任転嫁、 詭弁論、マヌーバー的手法を採り続けています。

 42年間も言い続けてきたことが、不破氏の、たった一つの報告で、突如として、 180度違う解釈に変わるのです。それも、国家体制の根幹である、天皇制(君主 制)という重要問題についてさえ。
 しかも、その「不破報告」を、中央委員会は全員一致で承認し、帝国主義規定に関 する理論を「不破理論」と呼んだだけで、公開討論版に掲載すべきではなかった等と 言う。

 いくら、憲法のすべての条項を守るなどと言っても、「表現の自由・言論の自由」 「民主主義」「人権」などの概念が、この党の指導者たちと国民とで異なった解釈を していれば、これまで培ってきた民主主義社会の理念は、一夜にして、吹き飛んでし まうでしょう。

 このような指導者たちを上部組織に抱く党が、権力を握ったとき、「国民が主人 公」などという政治ができる筈がない。世間の人が、そのようなことを、信じられる 筈がない。

 私は、不破氏に辞任と献身を求めましたが、十中総では、党建設の課題として、私 達の方に、「一つ目は、国民の要求実現のために献身すること」と、求められてしま いました。
 私は、党改革について、「開かれた党」になることこそ、国民の支持が得られ、運 動に広がりが出来るという立場で、これまで、語ってまいりました。それは、現行綱 領の統一戦線の立場を実践し、党外の知人、友人達とも、政治や身近な問題について も語り合い、それぞれの立場で、できることやろう、というものでした。

 「拉致問題」についても、党からの具体策が提示されない中で、友人達と話し合 い、「いいんじゃないか」と思われる提案も、それなりの団体に行って来たりしまし た。

 「査問」の問題なども、忌憚なく、話し合ってきました。「党史には『宮本ら党中 央が査問』などと書いてある。にもかかわらず、『査問という制度はありません』な どと、中央は言い張っている。そのように誤魔化すから、誰も信じなくなるのであっ て、『これまで、党内では、査問と呼んでいたが、規約どおり、これからは、調査と 呼ぶようにします。』ときちんと言えばいいではないか。」と…。
 このようなことは、私にとって、党に対する信頼を回復しようとする、ある種、 「陣地戦」でもありました。

 しかし、この党の幹部連中は、こんなことも、発表することができずに、「無謬性 神話」に縋りつき、「もともと『査問』などというものはありません。」などと平気 でホームページに載せるほど、頭の中が、硬直しているのです。そんな事をやればや るほど、まともな党員は、党外の知人達から、馬鹿にされる事になるということが、 中央には分かっていないのです。

 これ程の惨敗にも拘わらず、党指導部の、党外の人々にも分かる形での、何らの責 任の取り方も示されず、「開かれた党」に改革しようという姿勢も見えず、正しいと も思えない参院選の選挙方針が出され、あまつさえ、一般党員に対して、第一に「献 身」を求めるこの党の指導者たちの感覚が、私には理解できません。
 上に立つ者の責任は、どうなのだ。順番が、逆でしょう!!
 これでは、とても、党に対する理解と支持を訴えることなど、私には出来そうもあ りません。

 先に、いわゆるスターリン主義に関連して、「このような事を許さないための保障 は、民主主義です。一人一人の人権意識です。」と述べましたが、それは、党外の国 民だけではなく、それ以上に、党員自身が、身につけなければならない事であると 思っています。

 その民主主義は、レーニンの語る「プロレタリア民主主義は搾取者、ブルジョア ジーを抑圧する ――だから偽善的なふるまいをせず、彼らに対して、自由と民主主 義を約束しない」などというような「プロレタリア民主主義」であってはならないの です。
 かぎ括弧なしの民主主義でなければならないのです。

 しかしながら、「プロレタリア革命と背教者カウツキー」を指定文献として学習し てきた党員たちは、その思想の危険性に気付くことなく、「正しい」と認識している 者も、現実に、数多くおり、正当な批判を行う者を「異端」と感じ、「あいつは、変 わってる」「どうかしたんじゃないか」とさえ、党内では、口にされる状況なので す。

 先に述べました、九官鳥さんの意見、「この体質のまま共産党が政権を取ったら国 民が主人公の政権なんか出来るのかな?」に対して、「はっきり言って、『出来な い』と断言します。」と言ったのは、こういう意味です。

 誠に残念なことではありますが、『この党』においては、どうこう叫んでみても、 悪魔の組織原則――「民主」集中制と「分派」禁止のもとで、綱領改定案、不破報告 は、「全員賛成」で、承認される事となるのでしょう。

 もしかしたら、この党は、国会議員0議席になっても、セクト主義から離れられ ず、開かれた党にしようなどという自己改革は出来ないほど、「科学的社会主義」な るものを「信奉」しているのかもしれません。
 弁証法を「正しい」と認めながら、それを認めているから、自らの党は、「正し い」のだなどという論理は成り立たちません。
 方針、政策はもとより、硬直した党組織自体を、時代と国民の声、感情に合ったも のに改革して行くことこそ、弁証法に適うことである筈であるのに、かような事に背 を向け続けるのであれば、党は衰退の一途をたどり、それこそ、弁証法の正しさが、 共産党自身を通して、また、証明される事となるでしょう。

 ただ、このような大袈裟な事を言うまでもなく、党中央は、単なる「自己保身」に 過ぎない、と言う方が、実態に近いのだろうと、今、思っています。

 かつて、宮本氏は、「犬は吼えても、歴史は進む。」と言いました。
 はたして、「犬」は、どっちだったのでしょうか。

 「田口・不破論争」から20年を経て、「前衛」という文言だけは、規約から削除 されました。それも、他人様の「誤解」を招くからだそうです。「民主」集中制規定 が、削除されるまで、これからさらに、20数年の月日が掛かるのでしょうか。
 その前に、石原慎太郎氏の言うように、「社民も共産も消えてなくなる」(読売 12/9)ということの方が、正しいのかもしれません。

 かつて、「社会主義革命」を暴力革命として実現してきた「社会主義国」と呼ばれ た国々は、どうなり、そして、今、どうなっているでしょうか。

 ソ連・東欧は崩壊し、中国・ベトナムは「資本主義」化し、北朝鮮・キューバは危 機に瀕しています。
 「あれは、遅れた資本主義から起こった革命だからだ」ということを、しばしば聞 きます。
 それでは、そのまま資本主義が発達するまで待っていればよかったのでしょうか。  そうでは、ないでしょう。「革命」と呼ばれるかどうかは別として、何らかの改革 が必要だった事は、間違いないでしょう。
 そして、それは、それぞれの国や地域によって異なる改革であるべきであるし、可 能であれば、平和的な改革が望ましいに決まっています。

 先日、中国の自営業者たちが、団体で、平均70万円、向こうの価値では、約14 00万円もの大金を持って、日本に観光旅行に訪れ、1時間ほどで、20万円(同約 400万円)程度の買い物を行ったという報道番組をやっておりました。
 かたや、医療費が、一挙に、10倍にもなり、医者にも掛かれないという事態や、 農村の疲弊、自殺者の急増ということも、報道されております。中国共産党という名 の「政治勢力」が支配する国で…。

 ベトナムでは、ドイモイ以後、

 「市場経済の導入、国営、公営企業以外の民間経済活動、外資の導入など経済の自 由化、対外全面開放、官僚主義の改善など、政治、経済、社会、思想の全分野の刷新 を目ざした」
 「役人の汚職や不正摘発のキャンペ-ンなどをメディアが社会批判の役割を果たす ようになった。省の大臣や副大臣も摘発されている。」「一方では言論、報道の自由 は依然としてきびしく制限されている……幅広く報道禁止条項を設けて、マス・メ ディアの活動許可書、記者証の発給権限を国家が独占しきびしく統制、管理する内容 になっている。」(「『ドイモイ』以後のベトナムメディアの変容」静岡県立大学国 際関係学部教授・前坂俊之氏)
 「社会主義諸国において、貧富の差は、あまりにも大きくて、社会問題の1つと なっている。」(「日本が社会主義的」トラン・アン・チュエン氏)

とあるベトナム留学生は語っています。

 これは、結城克也さんが、仰っておられる、

 「先日、中国人社員と話しましたが、日本に来て一番びっくりしたのは日本の会社 における給料の差の少なさだそうです。彼の職場と同じ規模の部長クラスなら中国な ら6倍くらいもらっているのに、日本では同じ年齢なら1.3倍もないのではないか」 (10/27)

と、いうことと共通することでしょう。

 先日の報道では、ベトナムに、アメリカ艦隊が入港したとも伝えられました。
 300万人以上の死傷者を出したと言われるベトナム戦争を経て、今、かの国の 「共産党」という「政治勢力」は、何を考えているのでしょうか。

 「革命」という形での旧体制の「破壊」をなそうとも、その後に築き上げる、創意 に満ちた社会のヴィジョンとプログラム(=綱領)がなければ、「社会主義社会」 は、単なる絵に描いた餅。というより、絵にも描けない蜃気楼と化してしまうでしょ う。

 思うに、どのような「政治勢力」が、権力を握ろうとも、最終的には、その「政治 勢力」を構成する人間一人一人の自由と民主主義に対する意識、主権者意識、人権意 識が問われてくるものである、と私は、今、考えているところです。

 わが党のすべての党員、とりわけ、中央指導者たちに、そのような意識があると言 えるのか、ぜひとも、自照して頂きたいと思います。

 そして、その自由と民主主義に対する意識、主権者意識、人権意識は、人の人に対 する想いに、なかんずく、指導者たちには、徳とも呼ぶべき高い倫理性に、さらに言 えば、地球環境そのものに対する想いに、裏打ちされていなければ、「人間の顔をし た社会主義」――自治的共生の社会へと、近づくことも、築くこともできないであろ うと思っています。

 空想から科学へ。
 そして、「科学」から空想へ――。

 お読み下さいました皆様、有難うございました。