投稿する トップページ ヘルプ

「組織論・運動論」討論欄

愚等虫さま、原仙作さま

2004/1/7 人文学徒、60代以上、年金生活者

 愚等虫さま。多数の良い情報を含んだ投稿をご苦労様です。なにしろ投稿がなけれ ばこのさざ波も消えるわけですしね。そして、いまや1日平均千件近いアクセスがあ るという、そういう堂々たるさざ波の現状(ここで編集部のみなさんへ。5年足らず で凄いことをされたもんですね! これからもご健闘を! 翌日0時前の書き込みが ほとんどなどというようなご努力、頭が下がります。右の僕とは思想内容は異なりま すが、党が異論を報知し、討論できるようにしなければ党内民主主義が育たず、官僚 制が止まらないといった第一の切望は同じ。さざ波のさらなる発展を望みます。アク セスはまだまだ増えていくでしょう。根本的な異論に接した経験がないから、党員の 方々のアクセスは増えるばかりと思うのです。良い投稿なら、党員の無意識に感じて いる不満、不信をきちんと自覚させてくれるに違いありませんから。この調子でいけ ば、赤旗にもまた牽制、引き締め記事が載り、するとまたさらにアクセスが増えてい くんではないでしょうか。そう、要求にあったものは止められません。自然成長して いくばかりでしょうね。)を多くの投稿で支えている最近の主人公の一人という訳で もありますしね。大した貢献と言うべきです。また先月23日の投稿では、僕の第3番 目の論文の、党指導部について理論、倫理両面で最も強く批判した結論的部分を原稿 用紙1枚分ほども引用して広めてくださって有難うございました。

原仙作さま。真下信一氏の主体的唯物論(11月16日論文参照)、柴田進午氏の実践的 唯物論(同21日論文参照)は、原さんが先月1日に触れられている文脈のように理解 されて良いだろうと、僕も思います。僕が最も言いたかったことは、唯物論の従来の 「科学的」理解なるものが上部構造の相対的独自性、その土台への反作用という概念 を理論体系としてはほとんど無視してきたに等しいということです。そして、党が、 実践の中での実感としてどうもこれこれを軽視していておかしいという指摘ならほと んどこの重要な反作用に絡むものだろうと考えるからです。しかしただちょっと付言 がいると考えましたので、この投稿を書こうと思い立った次第。原さんは投稿末尾で 「大風呂敷を広げてしまいました」と「苦笑」されましたが、宮本顕治、不破哲三ご 両人などに比べたらまだまだ、その足元の親指の爪の先にもたどり着けないというよ うなもんですよ。みんなが彼らと同格のようにもっともっと大風呂敷を広げれば良い。 彼らが例えば「社会主義完全変質論は誤りだ」(先月1日の第三の論文参照)とか 「深部の力(が存在するからそれを人々が認識すれば社会は変わる)」などと駄文に 腐心してきた間に、社会党解体という事態を経ながらもなお党が数十年前の得票数に 戻り、戦後世界の伝統、人材などの歴史的栄光という財産も食いつぶしてしまったと いうそういう指導部の大風呂敷に比べれば、可愛いもんですよ。みんなが大風呂敷を 広げる、それが民主主義でしょう。末端が「目標と期限」の話しか要求されないとい う「活動?」に比べるならば、各人が自ら進んで風呂敷を競い合う真に自主的で本音 の「討論クラブ」の方が本質的・長期的に見てはるかに有意義なはずです。僕も何枚 も何枚もどんどんと広げ続けていきます。だめな文章なら、一般投稿欄の誰かさんの もののように、書いても書いてもやがては読まれなくなりますもの。それも民主主義。 僕はあれはもうほとんど読みません。「そんなことしてたら狼が来るよ」と人を脅し て狼を阻止できるものならば、第2次世界大戦なんか起こるわけはなかったはずです よねー。なお、読まれているかどうかは、それ以降の反応的言及で分かりますよね。 誰からも言及がないというようになったら、僕もさすがにやめにします。

さて11月以来の三つの論文でずっと、僕は「右」です、社会民主主義者ですと自己紹 介をしてきましたが、こういう社民もあるでしょうと言いたくて以下簡単な文章を書 こうと思い立ちました。まー「科学的」な文章から見たら随筆みたいなもんですが、 それがまた以下の「科学」ならぬ「総合判断」を中心テーマとする文意にはふさわし かろうということで、では

社会主義を巡る学説や歴史が教えているのは、素直に捉えるならば、今や以下のよう なことではないか。

1 大生産手段の私的所有はやがては終わらせたいし、事実としてもいつかは終わる だろう。失業、倒産、戦争、人間関係をぎすぎすした敵対的なものにしがちだという こと、犯罪多発、文化や倫理や教育の退廃などなど、富の集中、浪費による資本主義 の構造的、本質的な害悪が多すぎるからだ。しかしそれは、長期スパンの世界史的連 携の下でしか成し遂げられはしないだろう。一国でとか、敵失からある部分が急激に 進むとかが起これば、そこの指導者の内部にも、けっして友好的ではありえない資本 主義への対抗上からもその害悪が侵入せざるをえないはずであるから。存在が意識を 規定するという側面から見るならば、そうでしかありえないと考える。

2 こうして、社会主義を目指すか否かは、現在緊急な重要課題とはなりえない。そ れがどういうふうに世界的に実現されていくかなどは人類にはまだまだ分かってはい ないことが多すぎるのだろう。それがなによりも人々の認識の問題である以上に、民 主主義的生活自身の創造を中心とした世界史的実践の問題だからでもある。こういう 実践的な問題は「認識できればやがて間もなく実現できる」と言ったふうな「科学的」 対処で手に負えるようなものではないのだろうし、かと言って空想で処理できるもの でももちろんない。実践的な問題だということは、過去の理論などに基づいて仮説を 立てては実践してみるといった試行錯誤を重ねながらの「総合判断」を鍛えつつ実践・ 認識していくしかないということではないか。こういうその都度の総合判断について 実際の認識自身以前に一般論として言えることは、例えば以下のように多くはないは ずである。

3 まず、そういう事態を世界的にできるだけ早く実現するためにも、一国でできる 以下のようなことが日々、生活の場で営々となされていかなければならないだろう。 ますますむき出しになってきている資本主義の害悪に対して、民主主義的な意識的改 善闘争で実際に成果を上げ続けていくということ、そういう勢力の国権参画など、つ まり社会民主主義的な行き方である。

またそういう社会民主主義的改善には、哲学、歴史学などの人文学、社会科学等、広 い学問を総動員する人間集団が各国に必要だということ。しかしそういう集団の実際 の綱領は行動目標での緩やかな一致、協同に基づくものであるということ。そしても ちろん、現在で言えばグローバリズムの害悪に抵抗している各国の民主勢力が常に世 界的連携を努力しているといったようなこと。なお、以上のような問題への答え自身 は当然マルクスやレーニンの著作の中にあるはずもないものだとも思う。

4 政治主義、経済還元主義、客観主義などの発想、「科学的」社会主義に基づく 「前衛」党論、民主集中制(の特に、異論の外部公表・討論禁止規定)などは根本か らなくしたほうが良いと思う。これらが一体の物となって前面にでた「『科学的』真 理の党」は、やはり民主主義と両立できないのではないか。また、過去にこういう特 徴がつきまとい、しかもそれをここまでなし崩しに脱ぎ捨ててきた旧来の指導者は、 以上のようなイメージを傷つけてきたという意味でも今や発展の障壁になっているか ら辞めるべきであって、綱領も一新すべきだと思う。もっと緩やかで、もっといわゆ る上部構造的なもの、イデオロギッシュなもの自身を重んじ、文化的ないしは道徳的 に見て豊かな、魅力ある人々が集まるような綱領、党指導部に変わらなければならな いのではないか。

さて、これはこれとして当面の人々のせっぱ詰まった窮状はどうするのかという愚 等虫さんの原さんへの質問についてです。原さんが、党が総選挙でああいう左翼小児 病的なセクト戦術を取って数十年前の得票に戻るという敗北を喫した以上、もう段階 を踏んでいくしかないと言われましたが、なるほどなーと思ったものです。しかも社 会党の解体という事態の直後はちょっと増えて今度がたんと落ちて、護憲の社会党票 もまったく引き寄せられなかったという訳なのですから。それにしてもその「段階」 として提起された戦術、「党が選挙区を下りれば民主党に政権を押しつけることがで きる。しかしその際も与党にはならなくて批判は続ける。国民が民主党政権を体験し て苦い思いをするのも意味があろう」とは、なんと生き生きとした発想でしょうか。 「その政治的効果」8点を読んでいてあることを連想していました。田口富久治氏の 弟子の後房雄氏(名古屋大学法学部教授、政治学)が小選挙区制に賛成した時の観点、 「政権交代がある民主主義」という概念を。賛否は別としてこういうビビッドな発想 は、「『拡大』をやっていればまちがいあるまい」という数学の公式のように抽象的 で、無能さや官僚主義臭を感じる党の方針よりも僕にははるかに魅力的に映ります。 国民の気分に合っていて、しかも国民が共産党主導の下に新しい政治的体験ができる。 そう、宣伝よりも国民自身の政治的体験なんですよね。体験を通して党の政策の正し さをみんなが実感すること、それがなければ宣伝も意味がないし、党の規律も守られ なくなる。レーニンが同じ本でそう言ってましたね。存在が意識を規定するというな ら、そうでなくっちゃあ。僕も昔レーニンの「『左翼』小児病」のあの記述は、日記 にまるまる書き写した事がありました。なお、原さんがレーニンを引用したことを誰 かが批判していました。単に有名なレ-ニンだからということだけに引用の意味があ るわけじゃありません。リアリストで、人々の気分や習慣の大事さを知っていて、だ から政治戦術の天才であるというそういう側面の彼の言葉だからこそ引用するんです。 僕も、そしておそらく原さんも。そしてレーニンのこの面での天才ぶりは、彼をどれ だけ批判した歴史家も認めてきたところのはずです。日本共産党指導部には、レーニ ンのこの面をこそ学んでほしいんですけどね。

 そうは言っても愚等虫さん、連立内閣自身は弱いもんですよ。総理大臣が大作さん の「芸術」写真を激賞してみせてやっと持ってる内閣なんて。一応の自負心ある与党 政治家や官僚などは内心あざ笑っている事でしょう。そういう軽い人物に意味の空虚 な一喝を発されると草木もなびくという有様なんですから。ちなみにこの軽さを非常 に詳しく伝えたあるベストセラーを最近一夜で読んでしまいました。天木直人著「さ らば外務省――私は小泉首相と売国官僚を許さない」です。この本の執筆動機にはい ろいろありましょうが、中身は確かな、痛烈な政官批判と思った次第です。そして何 よりも面白かった。

さて、相手がこの体たらくなのに党がまた客観的には自公政権を延命させる選挙戦術 をとるらしい。原さんが「公式主義」、「左翼小児病」と名付けた戦術ですが、こう いう指導部が近い将来連立に加われたとして、このリアリズムに欠けた指導じゃどん なことになるのやら、そっちの方がさらにもっと心細い。というと彼らがすぐにこう 返すだろうことは、また目に見えるようです。「細川政権でなにかできたのか?!」 と。

自民党が今のように弱くなり、民主党も官僚も流動してるじゃないですか。永久政権 よりは何かが起こりそうだとは、だれでもが感じる場面でしょうが。人々の心の中に そういう気分が醸成されるのはいかにも大事なことじゃないですか。原さんが言って いるように、レーニンならこんな局面でのこんなセクト戦術には大反対すると思いま す。